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奥有馬村:紀伊続風土記(現代語訳)


奥有馬村 おくありま

産田神社

口有馬村の戌の方(※北西微南※)9町半にある。

産田神社  境内周3町半  禁殺生
 本社2社 伊弉冉尊社(方6尺) 軻遇突智命・伊弉諾尊 社(方6尺)
村中にある。口有馬村山崎村3ヶ村の産土神である。土地の人が伝えて、イザナミノミコトがこの地でカグツチノカミをお生みになられたゆえに産田と名づけたという。神功皇后が応神天皇をお生みになられた地を宇弥(うみ)というがごとし。後にその地を標するためにこの地に社を建ててイザナミノミコトとカグツチノカミを祭ったのであろう。イザナギノミコトは夫神なので後に並べて祭ったのだ(永正年中の棟札にも産田二所とあるので、古くから2社として祭ったのであろう)。

上古は榎本氏(榎本氏のことは別に記す)が代々神官で社領の地を掌ったが、中世以来、別に神主を置いて神事を掌らせた(永正の棟札に有馬荘の榎本朝臣和泉守忠親神主藤原森純白とある)。天正の頃、榎本氏が断絶し、宮社も途絶え、兵火にかかって古記等が伝わらないことは惜しむべきことだ。

社領は堀内氏のときまではまだ田地5町あったが浅野氏のときに収公せらる。その頃に浅野右近に愁訴して高5石を免ぜられる。元和封初旧に因って寄付せられる。また寛文年中に花窟ともに殺生禁札を給わった。享保17年に公から燈籠を寄附し給ひ、御修復所となる。祭日は毎年正月10日、隣郷の貴賤が群集して参詣する。

いま伝わる棟札は永正18年・慶長6年以下がある。また二王門の棟札がある(その文は于時慶長五年庚子八月十五日大工尼崎茂兵衛奉造二王門一宇大旦那豊臣朝臣秀頼公御奉公増田右衛門尉堀内安房守本願庵主充海)。いま二王門は退転してその跡も詳らかでない。神主を森某という。永正の棟札に森某とある子孫で、代々神主である。

産田神社
  産田神社:熊野の観光名所

小祠1社

安楽寺  長生山 禅宗曹洞派防州龍文寺末
 本堂(9間半 7間半) 衆寮(10間半 3間半) 庫裏(10間半 5間)
村中にある。熊野5ヶ寺のひとつで、郡中の曹洞一派の指揮をなす近郷の大寺である。縁起で、有馬和泉守が当荘を領していたとき、文安元年に防州龍文寺下の僧・雲海が熊野権現に参詣して産田社に詣ったのを和泉守が城中に招き入れて、これに帰依し、遂に当寺を創建し、雲海に住せしめ、同3年に七堂伽藍が落成したという。堀内安房守のときまでは寺領も100石寄せていたが、天正年中に梵宇が途絶え、兵火に罹り、後にわずか3間の茅屋を造る。慶長7年に浅野氏に愁訴して高10石を寄せる。封初はこれによって賜う(寺地はその高の中にある)。

泉福寺  延命山 禅宗曹洞派村中安楽寺末、村中にある。

古城跡
村中にある。今は田地となる。東西67間、南北31間。大手口は東に向い、本丸・二の丸の石垣の高さは3間、掘りの幅は4間など、今もその跡が残っている。これより北10町余の二石という山に出丸の跡がある。有馬氏代々の居城という。

三重県熊野市有馬町

読み方:みえけん くまのし ありまちょう

郵便番号:〒519-4325

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牟婁郡:紀伊続風土記