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有馬荘:紀伊続風土記(現代語訳)


有馬荘 ありま 全13ヶ村

有馬荘全13ヶ村、南は四箇荘と接し、北は木本郷北山郷に接し、西は尾呂志荘西山郷に接する。ただ東1面が大洋に向かって片瀬である。南は阿田和村から北は口有馬村まで海浜3里余。一帯翠松が海畔に連なって街道がその中に通じる。荘中の幅は東西2里半余、南北3里半ばかり。東は海に向かい、西は山を負って、土地は平らで広いが、山は浅く谷は深くない。材を出さず、片浜で漁の利がなく、ただ農だけで傍入の所得がないので、海浜だが家居や生産は西山郷北山郷の2郷よりもかえって困窮している。

有馬の名は最も古く神代巻に見える(下文、花の窟の条に詳らかである)。中世以後のことは詳らかに知ることができないといえども、新宮の神地で、榎本氏が来てこの地におり、産田神社の神官となり、子孫代々この地を領し、有馬氏という。その後、その家は堀内氏とひとつになり、堀内氏が亡びて公邑となり、後に新宮城に支配される。

産田神社
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有馬氏の始末を考えると、産田神官榎本氏24代の子孫を有馬和泉守忠永という。応永の頃、近郷を凌奪し、南は阿田和村から北は木本郷の新鹿村・遊木浦、曽根荘の二木島浦、三木荘の九木浦・早田浦・行野浦の諸村の16ヶ村を領し、有馬村に二ツ石の城を築いて居城とし、安楽寺を創建し、応永31年に死す。その子和泉守忠親は世継ぎがなく、その甥河内守忠吉その婿養子とし、己は木本浦に隠居した。その後、実子孫三郎が出生したことから河内守に罪を負わせ久生屋村にて自尽させた。だいたい大永の末の頃という。

河内守親族の者はこれを憤り、北山郷の者を語らい、多勢にて忠親を攻める。忠親は防ぐことができず、ついに自尽した。これによって家臣が相謀って孫三郎を立て主とした。孫三郎は25歳で死ぬ。子はない。親族大和守城代として領内を守る。このとき新宮の堀内安房守氏虎が猛威を遠近に震い、有馬の地を併合しようと兵を挙げて有馬を撃つ。有馬の家士がよく防戦するので、氏虎は志を得ることはできなかった。

後に有馬の士が集まり議して堀内氏と和を講じ、氏虎の二男楠若といった8歳になるのを請いて有馬の家継とした。後に有馬主膳氏善というのがこれである。堀内氏虎が死に、嫡子若狭守が家を継いで、いくばくもなくまた死ぬ。家を継ぐべき子がないので堀内の家臣みなが氏善を取り返して、堀内の主としようとした。ここにおいて氏善が合わせて両家の主となる。これよりまた堀内安房守氏善と称する。ゆえに新宮と有馬とに各々家士がある。また妻妾もあるので、その子に新宮腹、有馬腹の差別がある。氏善が両家の主となって勢力はますます強大になって西南は大田荘田原村辺より東北は曽根荘の曽根弾正も旗下に属する。三木新八郎は従わずに自殺し、ついに長島までみな氏善の領となる。

天正13年、豊太閤南征のとき、堀内氏は礼を修めて降伏したので基本領を守ることができた。このときに当たって九鬼長門守が志摩国を領し、堀内氏と婚を通ずる。関ヶ原の役に長門守が石田に与し、氏善を勧めて石田の招きに従わせた。氏善は兵を出して関ヶ原に赴く。勢洲に至る頃に石田が生捕りとなる。氏善は詮方なく長門守に就いてしばらく鳥羽城中におり、ついに新宮に帰る。古くは神職の家なので死を免ぜられ、領地を没収され、肥後国の加藤清正に預けられる。元和元年に肥後国で死ぬ(墓碑は肥後国宇土郡三宝院の旧地にあるという。あるいは氏善の死は元和4年であるという)。

氏善は子が多い。堀内家没落の後、四方へ離散する。大阪の役が起こって多く大阪の城に入る。落城の後、堀内主水氏久(氏善の七男という。有馬腹の子である)が天樹院尊婦人を救い出し、城中を逃れ出た。この功によって兄弟みな死を免ぜられ主水は500石を賜いて旗下の士となり、主善は有馬に帰っていたのを南龍公が月俸を賜いて木本浦に住まわせた。右衛門兵衛氏晴治は藤堂家に仕えて2000石を領すという。その他、木本・大泊・小泊の浦に住み、その子孫が今なおいる。

有馬荘13ヶ村


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牟婁郡:紀伊続風土記