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本宮 神官:紀伊続風土記(現代語訳)


本宮 神官

 

古の神官は詳らかでない。中世以来だいたいみな清僧であったゆえ、本宮三昧僧などの称がある。その後、次第に仏の風習を嫌い、妻帯肉食をなし、僧衣を脱いで髪を長くし、衆徒は本願寺等の称を除き去った。いまあるところの神職は本官があり、中坐があり、西坐がある。その下に小社人、神楽人、神子、管弦方、語約、堂下、承仕、御供方、地主祝部、同神子、神人、社大工などがある。

本官のうち坐を左右に分かち、左坐を上官という。その一﨟を総検校と称す。右坐を外官といい、その一﨟を別当と称す。総検校・別当が一山の支配をなした。本官は神前に出仕するのに五位の装束を着用する。本官は左右の外に中坐と称するものがある。古、綸旨永宣旨永補任等があったが、数度の火災でみな焼失して、いま伝わるものはない。小社人以下、神人、社大工に至るをかつて禰宜御師といった。御幸のとき玉体を祓い奉り、お導きをなしたという。古より国々の師職相定まり、今に至って諸大名諸士が参宮のとき各御師がある。

  坂本亀彦
  玉置縫殿
  竹坊大蔵
  請川釆女
  請川三兄
  尾崎又八
  九山仲

玉置縫殿の家伝では饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の末裔だという。文明年中の文書(家蔵)に玉置氏が尾張姓であることを記してある。ニギハヤヒノミコトの後裔といい伝えるが、やや古伝であろう。考えるに旧事記天孫本紀饒速日尊十八世尾治牧夫連は紀伊尾治連等祖とあるり、この裔であろう。玉置と称するのは大和国吉野郡に玉置山という高山があって、本国熊野の地に接するゆえに中古あるいは熊野神社の奥の院といった。その麓の本国の地に玉置口という村がある。その地に住んで本宮に奉仕した人が多いので氏としたのだ。家に元弘以下の古文書数通を蔵す。

竹坊大蔵はその祖は詳らかでない。代々鷹山村(今の高山村である)に住み、鷹山検校と称す。正安4年左衛門尉正得より大貳法印の仰を受け、鷹山村検校職為相伝職当知行無子細由被申上者向後領掌不可有相違との文書を伝えている。南北合一の後、楠木氏らが大和の十津川に隠った。その族の和田氏が当家を継いでから和田を氏とする。家蔵の文書のなかに永享の頃に竹坊の称が見えるので、竹坊は住居の名でついに苗字となったのであろう。家伝に応永年中に和田駿河守世賢という人があって、これをその祖という。応永の文書に和田四郎左衛門といい、また河井和田駿河といい、また河井駿河守というのもある。これは思うに1人であって世賢のことであろう。和田氏の当家を継いだのはこの人であろう。古い神位に一﨟常椿法印権定門大和尚位というのがある。すなわち世賢の入道号であろう。

(※後略※)

 

和歌山県田辺市本宮町本宮1110

読み方:わかやまけん たなべし ほんぐうちょう ほんぐう

郵便番号:〒647-1731

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牟婁郡:紀伊続風土記