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市鹿野荘:紀伊続風土記(現代語訳)


市鹿野荘 いちがの また二十五村ともいう 全28ヶ村

市鹿野荘全28ヶ村。市鹿野荘はまた二十五村荘ともいう(28ヶ村で25村と称するのは、竹垣内村は古くは大瀬村の枝郷であり、向山村も大谷村の枝郷であるので、この2ヶ村を省き、上木守村下木守村は古くは1村なので、これを合わせて1村として数えるのだ)。

安宅荘の艮(※東北※)安宅川の上流にあって、北は四番荘と接して三森半作大尾の諸嶺を堺となし、南は城川荘と接し、東南は七川谷郷及び佐本荘と界し、坤(※西南※)岩田郷に堺し、巽(※東南※)は木守村領大塔ノ峯をもって四村荘と界し、口熊野・奥熊野の界がここに分かれる。

また熊野街道が2筋に分かれて山中を行くのを中辺路といい、海辺に沿って行くのを大辺路という。これはまた大塔ノ峯がその中間を隔てているからである。大塔ノ峯の奥口の中間に□起して蟠根が跨がる所、四方7〜8里の間に亘り、その地は人跡絶えて至る者なく、またその頂を窮めた者はない。その幽□高広は人力で詳らかにすることはできない。

この地は古の栗栖郷の地であろう。荘中は大体東西12里ばかり、南北6里余り、渓筋は東西に通じて3つに分かれる。北にあるのを熊野谷川という。熊野村面川村の2村がこれにある。中にあるものを前川という。上木守村下木守村五味村原村伏菟野村長瀬村九川村串村谷野口村の9ヶ村がこれにある。南にあるのを将軍川という。柿垣内村北谷村竹垣内村大瀬村上露村中野俣村下露村佐田村古屋村の9ヶ村がこれにある。

上記の3渓は合川村で合流し、四番荘の広見川もここで合流して市鹿野村に至って川の勢いが盛大になり初めて舟便を通すことができる。これより上流は3渓みな狭小で、2つの山が峡をなし、土地の民はその間にいる者は耕すことができる土地はなく、山の岨を墾闢して斜田を作るが、土地は痩せていて収穫は少ない。あるいは薪を伐り炭を焚き、材木を出して産業を助ける。しかしながら道路が険遠で肩荷する者が得る収入はその出費を償うに足らない。終身の間、勤力労□して常に貧しさや餓えを憂う。

その風俗を論ずると、大体荘中の民居は、柱はみな掘込立で屋根壁ともに板あるいは杉皮を用い、土の上に筵を敷いて床の設なく、身にぼろの着物をまとい、雨天に蓑笠を用いない。山中を歩くのにも多くは裸足で、草鞋はない。これを望んで男女の別弁しがたきに至る。

朝夕の食事は炭薪を負□して僅かの米を得たときは粥などに作って食べる。雨天などで外に出れないときは木の実、木の芽出し、草の根の類をもって餓えを凌ぐのを常としている。

妊婦が山中に入って薪を採るのに臨月に至ると、古い着物のきれを懐に入れておき、若山中で子供を産むときは自ら渓川に臨んで児を洗い、着物のきれに包んで懐にし、薪を頭に載せ、いつものようにして家に帰るということを推してその風俗を知ることができる。城川荘・四番荘栗栖川荘は大体みな同じである(熊野中辺路の街道にあるものは例外)。

故に荘中の諸村はその峰□□□の奇絶なることと、川の流れや涌く泉の清麗なることは言葉で言い尽くすことができないところで、村落民居の間に至ってはひとつも言うに足らないものはない。よってその風土の□略をここに書いて各村の条下ではただ村名や方位を挙げるのを要とするのみ。

大塔峰
木守村の東にあって木守村より渓を5〜6里行き、□にその麓に至る。麓までは時おり至る者はあるが、古よりその頂きに登る者はいない。山頂は2峰をなす。北にあるのを一の森と称し、南にあるのを二の森という。大塔は大多和の意味で2峰の間に大きな多和をなすことから大多和の峰といったのが転じたのだ。

渓水はその西の谷から出るものを前川といい、当荘に注ぐ。北の谷から出るものを安川といい、四番荘に注ぐ。東の谷から出るのを請川といい、四村荘に注ぎ、熊野川に落ちる。南の谷から出るのを古坐川といい、七川谷郷三前郷に注ぐ。

この山は口熊野・奥熊野の間にあって□峰高く聳え、蟠根延蔓してほとんど10里に亘る。熊野の鎮山ということができる。古から今に至ってその頂を窮めた者はないので、その高さを測ることはできない。山脈千条万岐して諸嶽の本根となり、その前後左右に高峰があって隔をなすので、山麓から10里離れなければ、その頂を見ることはできない。故にこの辺りの諸村の者でもその山を見る者はない。

深く山中に入って材木を伐出を業とする者が30〜40人が伍をなし、大塔の麓、木守村の奥に小屋を掛けて3〜4年、その内に住んだ者が語るのを聞いたが、春の末に3〜4人伴い早朝から山に登ったが、やつどき(※午後2時頃※)の頃になってわずかに山の4合に至ったと思われ、ここから引き返して小屋に帰ったが酉の刻(※午後6時頃※)であったという。路は険しくはないが、広大であることを推し量ることができる。

11月頃夜中に空中でスリキリと鳴く鳥がいる。始めは緩く、後は急である。連声は一時(※今の2時間※)あまり。大きな鳥とも見えない。また夜中樹の枝でオンコキトウ  と鳴く鳥がいる。小鳥の声である。

また雪の中に4〜5歳ばかりの小児の足跡を見たことがある。また1寸5分くらいの円形の足跡を見たことがある。また6寸ばかりの十字をなした足跡があり、その間隔は3尺ばかり。1足で歩いたと見え、左右の足踏みがなく1筋に跡がついていた。

また安川の上流の牛鬼滝の辺で10余人の人数で小屋住みしたとき、深夜遠方で猫の声が聞こえる。次第に近くなり小屋の傍らを通り過ぎるときは、地に響き、鐘を衝くように思われた。次第に声がまた遠くなる。10余人の者はいずれも斧をとりしばり暁まで誰ひとり言葉を出す者はなかったとか。また牛鬼滝の下で3尺に余る髪の毛を多く固めてあるのを見て肝を消した者がいたともいう。

いずれも極深山のことなのでこのようなこともありうるか。しばらく書して異聞に備えるという。

入道ガ峰
法師ガ峰
2峰はみな木守村と四番荘下川上村との堺にある。大塔ノ峯の西に走る山脈中の高嶺である。法師は北にあり、入道は南にある。登りはみな麓から2里ばかりという。入道といい法師というのは、山峯が他の峯より勝れてその頂を顕わすことから名づけるのだ。

三森(ミツモリ)
熊野村(※東北※)にあって四番荘下川上村との界で、法師峯の西にある。山峯が3つに分かれることから名づける。安宅荘から望むときはただ2峯をみるのでその地では矢筈と名づける。

念塔峯
木守村の南、五味村の巽(※東南※)にあって南は七川谷郷と界をなす。その高さは法師に続いてまた高峰である。

瀧頭峰
市鹿野村柿垣内村との界の高峰である。前条の諸峰より低いが、口熊野諸荘の諸山をみな望み見ることができる。

熊野川
源は上木守村の界、栃の木平より出て、熊野村面川村の2村を経て合川村に至って前川と合流する。源から合川に至るまでの全長は4里余り。

前川
源は大塔峰の谷から出て木守村を経て五味村に至るまで諸谷の水を合わせて、五味より原村伏菟野村長瀬村九川村串村の諸村を経て合川村に至って広見川と合流する。源から合川村に至るまでの全長は9里余り。

将軍川
七川谷郷平井村領大森辺から流れ出、佐本荘の諸谷をみな流れ落ち、また竹垣内村の東の将軍滝から流れ来て大瀬村に至って御社川と合流し、上露村中野俣村下露村佐田村古屋村の諸村を経て合川村に至って広見川に落ち合う。源から合川に至るまでの全長は5里余り。

市鹿野荘28ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記