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鍛冶屋川村:紀伊続風土記(現代語訳)


鍛冶屋川村 かじやがわ 村居は4ヶ所に分かれる。各々小名がある。 小皆 熊野川 沢 小野

 田畑高 302石3升8合1勺
 家数  69軒
 人数  402人

芝村の西の枝谷にある。村居は4ヶ所に分かれる。東にあるのを小皆(こかい)といい、その西にあるのを熊野川(くまのがわ)といい、その北にあるのを沢(さわ)といい、沢の西にあるのを小野(ちの)という。

鍛冶屋川の名前の意味は詳らかでない。屋は谷であろう。鍛冶の意味はいまだわからない。山中の所々に鍛冶屋という所があるのを見れば、鍛冶は山中の地形を呼ぶ名で峡(かい)などという類であろう(土地の人が伝えて、栗栖川の内に鍛冶屋屋敷というのがあった。昔、三条小鍛冶宗近が落人となり、ここに来て住居する。鍛冶屋の名はこれから起こる、という。これは後世の付会の説であろう)。

 小皆(こかい)
小皆は借字でその意味は小峡(こかい)である。鍛冶屋川の入り口は狭くわずかに人を通すほど。小峡の名がある所以である。

若宮  社地周1町半、1村の産土神である。

龍徳庵  禅宗関山派田辺城下海蔵寺末

廃光明寺  火災によって廃絶するという。

覗橋
熊野街道に架かる橋である。長さ6間、幅8尺。両方を石巌にかけて谷底が深く橋杭はない。

龍馬瀧
蘆谷という所にある。高さ5間ばかり。古、猟師がここで鹿笛を吹いたところ、龍馬が現われたので驚き去る。後にその場所を見ると岩の上に龍馬の足跡があった。これより龍馬瀧という。

 熊野川(くまのがわ)
熊野川は借字でその意味は隈の川であろう。地形によって呼ぶのだ。

若宮  社地周32間、山の内にある。1村の産土神である。

宝珠寺  熊野山 禅宗関山派田辺城下海蔵寺末

鍛冶屋屋敷  このことは村の名前の意味の条で出している。

 (さわ)
地形によって呼び名とするのだ。

龍華寺  倉野山 禅宗関山派田辺城下海蔵寺末

城跡
村居の巽の方(※東南※)、麓より4町ばかり、山腹にある。昔、判官という人が籠城した地といい伝える。また倉の平の後の山に一日泊りという地がある。判官が一夜泊まった地という。判官がどんな人であるかは詳らかでない。

 小野(ちの)
これも地形によって呼び名とするのだ。

明顯天王社  社地山周1町、串崎という所にある。小野・沢の両所の産土神である。

小堂2宇
 阿弥陀堂
 性月庵  禅宗関山派田辺城下海蔵寺末、井の向という所にある。

稲平(いなひら)谷
村居より亥の方(※北北西※)に当たり、小谷がある。深さ1里半余り谷奥に住吉明神の小祠がある。土地の人が相伝えて、春摂州堺の人が落人となりこの谷に来て田畠を開き住した。村民はこれを知らなかった。あるとき、芋茎が谷奥から流れ出るのを見て人がいることを知ったという。その人は堺の人なので住吉明神を祭ったのだ。今なお小祠がある。しかしながら今は田畑もみな荒れて人家もないという。

小野辻戦場
村居の坤(※西南※)14町ばかりにある。天正13年、湯川直春が四番荘の横矢六郎の家に隠れたのを杉若越後守が押し寄せたが、小野・沢の土地の民等がここで相妨げ、杉若勢を追い退けた地という。

虎ガ峯
村居より亥の方(※北北西※)にあって、登り40町ばかりの高峰である(詳しくは日高郡山地荘の上柳瀬村の条にある)。

旧家   沢
家伝にその祖を湯川荘司光政の弟次郎勝光という。新宮能城(のき)の土居を構えて住んでから能城を氏とする。8代能城二兵衛勝重が永禄5年河内国飯盛合戦に湯川直光に従って三好勢と戦う。直光は戦死する。勝重は林兵庫と計り直光の死骸を埋め、小手草摺を持ち帰り日高郡の小松原村の城にてその子直春に贈ったという。後、当村に土居を構え20余年住んだが、天正兵乱の後に直春が毒殺されてから浪人となり、なお沢村に住み、沢を氏とし、子孫は百姓となる。湯川直春の書簡1通を所有する。

和歌山県田辺市中辺路町小皆,熊野川,沢

読み方:わかやまけん たなべし なかへちちょう こかい,くまのがわ,さわ

郵便番号:〒646-1435, 646-1436, 646-1437

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