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花井荘:紀伊続風土記(現代語訳)


花井荘 けい 全8ヶ村

花井荘8ヶ村。東は三村郷に接し、乾(※北西※)三里郷に接し(九重村の北に大和国十津川村の内竹戸村と接する所がある)、東北は入鹿荘と界する。その広さは東西1里半ばかり、南北もこれと同じ。花井荘は古くは4ヶ村。九重・四滝・川合・楊枝村である(慶長検地帳に載せる所である)。

寛文6年に川合村を分けて小船村宮井村・相須の3ヶ村とする。また九重を分けて花井村を建てたが、花井村が最も古い(本宮竹ノ坊の古文書に見えている)。慶長の頃に九重村に合併したが、後に古に復して1村となした。

花井の地名の意味は詳らかでない。考えるに、いま花井村は稲荷神社があってこれを産土神とする。稲荷神は保食神である。越前国の気比神社も保食神であろうと先輩の説があるので、この村の稲荷というのは元気比の神であろう。であれば花井は気比と同じであろう。よってその社の前の平地を花井平という。花井の名はここで起こったのであろう。

慶長年間に北山一揆のとき(一揆のことは北山郷の条下に出ている)、楊枝村に浄楽寺の長訓という者がいた(浄楽寺は古本宮の社僧の内で松平家宿坊であったという。妻帯の僧であったのだろう。今も浄楽寺はあり、禅宗である。後世改まったのであろう)。武功の者で一揆の賊を多く撃ち取り勇名を顕わしたので、浅野家からその恩賞として花井荘の内で200石を与えられる。8ヶ村を花井荘とすることは、この長訓に始まったか、また古からその名があったのか。詳らかでない。

長訓は花井村に住して、その屋敷跡は今なお花井平の内にある。花井荘の中央は南北に北山川が流れて小船村宮井村に至って熊野川と合流し、新宮に至って海に入る。船便があるが、両岸の諸村は山が深くなく材木を出すのに足らない。田畑はみな斜田で、かつ狭隘で痩せている。ゆえに荘中を通してみな貧村である。家建もまたよくない。

花井荘8ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記