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神山村:紀伊続風土記(現代語訳)


神山村 こうのやま

寺谷上番村の巽(※東南※)1里余にある。慶長検地帳では粉山村と書く。神は神戸の意味で、神戸の山の意味である。そのわけは神上村の条に詳らかである。本村と小名滑地と村居は2つに分かれる。その間に五越峠という小さな坂がある。

飛鳥明神社  境内 東西55間、南北25間
 本社(7尺7)  末社
村の中にある。当村・野口村佐渡村の3ヶ村の産土神である。寛文記に若宮とある。昔、寺谷村より勧請したという。

光福寺  宝鏡山 禅宗曹洞派甲斐国巨摩郡宮沢村深く福向院末
村の中にある。寛文記に応永元年の縁起文を載せる(この縁起は応永の頃のものではなく、後に書いたものと見える。虚実が混じっているようだ)。

その略に「平維盛が我家の重宝赤団扇を持って来て当国で入水した。その後、南天皇が当国にお流されになられて、この地をお見立てて1寺をお建てになり、剣・鏡・団扇を納め置かれた」とある。

また「この境地は維盛の建立で、二俣竹の赤団扇がある。阿弥陀堂4間四面、この天井に箱をお納め置き、上ノ重には鉄の切金、下の重には鏡1面が袋12重ねに包んであると言い伝えるのみで見た者はないと見える。天正の頃、吉川三蔵の内に左近兵衛という者がこれを開いて見たが、その後、新宮神倉で天狗に引き裂かれた。寺の由来書・団扇・真壷は大和大納言に差し上げたが、郡山城にて団扇が光を放ったため寺へ返され、他の2種は留められ、高50貫の地を寺領に寄付される。その後、浅野家のときに改めて米5俵を寄付する」とある(以上寛文記)。

この他の什物は三尊弥陀書像・十六善神書像・青磁・香炉・横笛などがあって、みな維盛所持の品と言い伝えたが、元禄年中の火災でことごとく焼失して、いま遺る物は鉄の切金3片、鏡の輪郭の欠けたものと思われる焼け残り7、8片がある。 また等雨の達磨の書1幅を蔵す。その図は普通の姿とは大いに異なる。また近年塀を修理しようとして掘り出てきた古鏡が1面ある。いま寺領は5石である。

『残桜記』に(若狭小浜の家士伴信友の著)「後亀山天皇の御孫尊義王が比叡山で亡くなられた後、その第1の御子尊秀王・第2の御子忠義王を南方宮方の武士等が取り立て奉って、比山の内大河内と河野谷とに(大河内・河野谷はみな大和の内の地名であろう)置き奉り、南方宮と称して旧の南朝の皇統に復し奉ろうと企んだが、長禄元年丁丑12月に赤松の一族が詐謀を設けて両宮を弑し奉った。しかしながら南方の宮方は郷民等と共に赤松の党類を追討して神宝を取り返し奉って、なおも尊義第3の御子尊雅王を取り立て奉って十津川に安置し奉った。

明くる2年寅2月に吉野の奥に御座所を構えて遷し申し上げた。このとき赤松の残党の小寺性説小河中務少輔間島衣笠等が相謀って宮の御座所を襲い奉ったので、そこをお逃れになって、また十津川にお遷りになった。小寺等が続いて追いかけて厳しく攻めたが、8月27日の夜にそこを攻め破られ、宮も痛手をお負いになって北山にある高野の上の高福寺に逃れ、そこにいらっしゃったが(「高野の上」は今は神上と書く。北山内の村名である。高福寺は今は光福寺と書く。神山村にある。ここで「高野の上」というのは神上村・神山村が近村で名が似ているので訛ったのであろう)、御傷が病が重なって、ついにそこで薨去され、高福院と□り奉ったとか。この寺の辺に葬り奉ったのであろう。

さてまた神璽は元より御事なくいらっしゃったので、このとき小寺性説等の手で守り返し奉った(以上『残桜記』によって書いた(※中略※)北山高野上高福寺と記したのは、このときのことをいうのであろうか)」とある。

このように尊雅王が十津川で痛手をお負いになってこの地に逃れて来られたので、湯谷村に南帝王御腰掛石と言い伝える石があるのは、すなわちこのときしばらくの間お休みになられた所であろう。それからこの寺にお入りになってついに薨去されたので、御身に添われていた御宝はみなこの寺に遺り伝わったのであろう。

ここより乾の方(※北西※)1里ばかり、寺谷下番村に赤松屋敷という地があってそこに今も古い五輪の石塔があるのは、これはすなわち王を葬り奉った所であろう(ここを赤松屋敷ということは心得難い称で、また五輪の石塔は誰の石塔であるか土地の人もその伝がないいので、必ずその縁があるにちがいない。王がすでに薨去なさった後は、この地も敵方の地なので、事を正しく伝えれば、いかなる災いを引き出すか計り難いので、事を替え名を改めて隠し包んだため、その事実を失ったのであろう)。

寺の縁起では平維盛卿が持って来た重宝といい、また南帝王がお遺しになられた御宝といって、事が混ざっているように聞こえるのは誤りがあるようだが、つらつら考えるとこれまた縁のあることと思われる。

色川左衛門尉盛氏は代々色川の強族で、維盛卿の末裔である。その家に維盛卿の遺物は伝わっていたのであろう。しかし忠義王・尊雅王の両宮はみな盛之の娘が生み奉ったので盛氏家の重宝を宮に進め奉り、宮もまた身に添えてお持ちになられていたので、宮が薨去なさって、その物を寺に遺して2つの伝を1つにいったのであろう。

また御鏡の袋が12重に包んであったが、それを開き見た者が新宮神倉で天狗に引き裂かれたという神罰の著しさを思うと尋常の物ではないだろろう(嘉吉の乱で真の内侍所はそのまま禁中に御座したので、この御鏡は真の内侍所に準えて南方で別にお作りになった物であろう)。

元禄の回禄にかかってその焼け残りの物とて、御鏡の輪郭の所と思われて幅6、7分、長さ2寸ばかりで少し曲がった物7、8片だけであるのは惜しむべきことではなかろうか。近年、掘り出た鏡は宮が常にお使いになられた物であろう。

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保色峯
村の寅の方(※北東微南※)にあって、登り全40町、荘中の高山である。よじ登ると牟婁郡中が瞳の内にある。

観音滝
村の北18町、丸石山という所にある。高さ5丈余。観音堂が1守ある。

辛怒涛山(からぬたやまの)城跡
村の南にある。天正16年に大和大納言の命により吉川平助・同三蔵・堀内安房守が3400〜3500人を率いてこの城を守り、寺谷村の境のグミの木の多尾の城を攻め落としたことは詳らかに寺谷村の条に載せる。

旧家     倉谷善兵衛
その家系は詳らかでない。有馬荘井土村の大馬権現社の永禄の棟札に「神之山蔵屋敷」というのがある。すなわちこの家である。その家は当村開発の家で、平維盛が熊野に逃れたとき客として隠し置いたと言い伝えている。

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また観音滝にある観音堂はこの家から支配する。その観音は維盛の守本尊で、古くは光福寺の奥の院であると寛文記に見える。その後、古い観音は紛失して今の本尊は後に造った物である。

また飛鳥社と光福寺の境内はみな古くはこの家の土地であるとか。またその家に小祠があって丸い石を祀る。由来は詳らかでない。その石は毎年子を生む。凡そ60〜70も石を生んだ。先年火災に遇ってから今は産まないとか。古くは地士大荘屋役をも命ぜられた。

三重県熊野市飛鳥町神山

読み方:みえけん くまのし あすかちょう こうのやま

郵便番号:〒519-4566

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