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那智山 鎮座由来:紀伊続風土記(現代語訳)


那智山 鎮座由来

熊野那智大社

当社は本宮・新宮と鼎立して三山と称し、祀神を十二所権現と称する。しかしながら十二所権現を祀ることは中世以後のことで、その初めは三山共に古く鎮座している3座の神を祀った。それを仏模様になしてきて、これを熊野三所権現と称する。

その社はすなわち延喜式に載せるところの牟婁郡熊野坐神社・熊野速玉神社で、本国神名帳に載せるところの牟婁郡正一位家都御子大神・正一位熊野夫須美大神・正一位御子速玉大神の3神がこれである(三山共に三所権現を祀り、前後本末の別なく一様であることは新宮の条で論じた)。

式の熊野坐神社は本国神名帳の家都御子大神で、家都御子は素戔男尊のまたの御名である(このことは新宮の条下に詳らかである)。後年、仏模様に祀って、本地を證誠菩薩とし、社を證誠殿と号した。

また式の熊野早玉神社は2神の名で、熊野というのは本国神名帳の熊野夫須美大神で、熊野夫須美はすなわち熊野久須毘命である。早玉というのは本国神名帳の御子速玉大神で、すなわち速玉男命である(このことはまた新宮の条下に詳らかである)。この2神は元は1殿に祀ったので熊野早玉神社という。

『御幸記』が神名を挙げて、まず證誠殿、次に両所とあるのはこれである。證誠殿は家都御子の1社である。次に両所とは熊野夫須美神と御子速玉神と2社相殿であるのをいう。両所を当山及び新宮では後に両殿として中御前・西御前という。今も本宮では古のように第一證誠殿、第二両所相殿で中御前・西御前を合わせている。
  藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3:熊野旅行記

当山では早玉神社を中御前と称し、夫須美神を西御前と称し、また結宮(むすびのみや)と称する(御垂迹縁起に結早玉というのはすなわちこの結宮である。結と夫須美と同じ語の少し転じたものである。神代記で熊野久須毘命といい、また熊野櫲樟日命という。みな同神である)。

当山では西御前を本社と言い伝えるという。しかしながらそれは古い伝ではないだろう。よって三山共に社殿の様は同じではないが、各3柱の神をもって三所権現と称するのはひとつである。ゆえに楼門に懸かる勅願に日本第一大霊験所根本熊野三所権現とある。これが古い称であることを見ることができる(古は式に載せるところ、本国神名帳に載せるところの神名であったが、後に両部に祀るに至り、三所権現の称が起こったのだ)。

であるので三所権現は三山共に同一体の神なので、式に載せるところは1所のように見えるが、三山に通じるべき、本国神名帳に載せるところも3神を別々に挙げてるが、3神共に三山に通じるべし。すべて三山と同一体なので、多くのことはただ熊野ということをもってこれをすべて三山の地名挙げることは希である。

また本国神名帳に従四位上飛瀧神がある。これは当山の一の滝を祀って神とするのだ。よって当山には三所権現の外に瀧宮を地主神と称し、第一殿に祀る。社家の説では祀っている神は大己貴命という。これは本宮・新宮にはないところである。

那智の滝
  那智の滝:熊野の観光名所

三所権現は貞観元年、同5年、また延喜7年に授位のことがある。『長寛勘文』で熊野神を論ずるのがただ3座の神に止まることを見ても熊野三山の祀る神がただ3座であることは明らかである。しかしながら御幸記に本宮の神を挙げて3座の神の外、数神いらっしゃるように見える。このときには、当山も同じであろう。この頃になって徐々に他の神を合わせ祀り、社を並べて、その数10余座になったのであろう。

十二所権現の称は初めて『平家物語』の鬼界ヶ島のことを書いた文に見える。
  平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流:熊野の説話

また『仁和寺諸堂記』に「北院御宝御時被勧請三所権現当御時被奉請十二所(諸堂記の末に仁治3年6月23日被注之とあるので、当御時とは道助法親王のときで『平家物語』の頃からは3、40年の後に当たる)」と見える。これらが十二所の称の古いものが見えた初めであろう。しかしながらその神名は詳らかでない。若宮は天照大神を祀るといい、また伊弉諾尊・伊弉冉尊を證誠殿以下の社殿に祀るという。その他の神名は詳らかでない。

東寺に蔵する古書に(500年以前の書と見える)熊野本地仏を書いて、証誠殿(阿弥陀)、西御前(千手)、中御前(薬師)、若王子(十一面)、禅児宮(地蔵)、聖宮(龍樹)、児宮(如意輪)、子守宮(聖観音)、一万(文殊)、十万(普賢)、勧請十二所(釈迦)、飛行夜叉(不動)、米持金剛(毘沙門)とあって、仏名ははっきりするが神名を知る手だてがない。

禅児宮・飛行夜叉・米持金剛等の称によって考えるに、このときに当たって朝家が仏意をお崇めになられた御時なので、もとより仏模様に神を祀り、社殿を建て並べて付会の説を強行して、このような姿になして世の信を取ったのであろう。

慶長元和の頃になって、神職の徒が両部習合本地垂迹の説が誤りであることをはっきりと悟り、古の正しさに復そうと思ったが、その頃、古学は世に明ならず。数百年、僧侶の根拠のない説を信用して来た後なので、三所の神名が延喜式に見られ、本国帳に載せて明白であるのすら考えることができず、仏名をもって神名としたのを除きかねて、本社は伊弉諾・伊弉冉両神を祀っているといい、若宮を天照大神であるというのに基づき、『□嚢□』に国常立尊を祀っているというのを□り、世俗が伝える天神七代地神五代の数十二所の数と相合うことから書蕃神を□けて七代五代の神名に改め定めたのであろう。

しかしながら仏法ざまの称、蕃神の号は古く伝わって改め難いので、これを社殿の名とし、一万というのも1神、十万というのも1神、十二所というのも1神とし、禅児・米持金剛・飛行夜叉等をみな社殿の号として、七代五代の神をそれぞれに配当する。よって社殿の号と神名と相関がなく牽強がひどいようだが、やむを得なかったのだ。だからその是非は問うまでもない。蕃神を□けて尊い神に祀り替えたその功は大きいということができる。

であるので、三山共に証誠殿は家津御子を祀り、次に両所は2社合殿にして夫須美・速玉の2神を祀り、これを三所権現と称し、次に上四社・中四社・下四社の3殿があって、七代五代の神を祀り、これを十二所権現と称してしまったならば、古今の分かちが燦然として混同に至らなかったが、社家の徒が古を考えることができず、意をもって合併分割して、その差別が分明でないのは遺憾である。

社家が相伝えて当山の草創を仁徳天皇の御世とする。また、古に裸形上人といった高僧がいた。権現をこの地に勧請し、その傍に庵を結んで如意輪観音を安置し、権現に奉仕する。その庵はすなわち今の如意輪堂であるといっている。

那智山青岸渡寺
  如意輪堂(那智山青岸渡寺):熊野の観光名所

『御垂迹縁起』に熊野神が当国に天降りなさる次第を書いて、ただ本宮・新宮だけを載せて那智のことをいわない。『愛徳山縁起』に同じことを書いて「紀伊国富浦富島でしばらくお休みになり一宿、次に牟婁郡の補落の浜の南(この下に一宿の2字を脱字したのであろう)に浪寄渚遠云々」とある。補落の浜はすなわち那智の浜なのでこの地にも跡をお止めになったのであろう。しかしながらこれらのことは神世のことで年暦を考えるべき手だてがない。

本宮は崇神天皇の御世に宮造して鎮まり坐し(詳らかに本宮の条に出ている)、新宮は景行天皇の御世に宮造があって鎮まり坐したので(詳らかに新宮の条に出ている)、那智もこれらに続いて補陀落の浜より今の地にお遷りになったのであろうから、あるいは仁徳天皇の御世とも申し伝えるのであろう。いずれにしろ三山同一の神なので、今の地に鎮座のことは少しの前後はあるだろうけれども、大きな違いはないであろう。

裸形上人のことは古書に所見がなく、履歴は詳らかでないけれども『霊異記』に載せる永興禅師というのがすなわちこれであろう。『霊異記』に「阿陪天皇の御代に、紀伊国牟婁郡熊野村に永興禅師がいて、海辺の人を教化した。時の人はその行いを貴び、ゆえに菩薩と称した。天皇の都より南にあるがゆえに、名付けて南菩薩といった云々」とある。
  髑髏の舌:熊野の説話

また「永興禅師という者は奈良左京の興福寺沙門である。俗姓葦屋君氏一云市往氏。摂津国手島郡の人である。紀伊国牟婁郡熊野村に住んで修行云々」とある。

永興禅師が熊野に住んで人々に尊信されて、他に事蹟が残っていないので、すなわち裸形上人であろうか。

『霊異記』にまた「牟婁の沙弥は榎本氏である。自度僧であるため、僧名はない。紀伊国牟婁郡の人であるため、あだ名を牟婁の沙弥と名づける。安諦郡荒田村に居住し、ひげや髪を剃り落とし、袈裟を付け、俗人の生活をして家計を立て、世渡りのために生業を営んでいる。

写経する法に従って心身を清浄にして法華経一部を写し奉ろうと発願し、もっぱら自分で書写する。大小便の度ごとに水を浴びて身を清め、書写の座に着いて以来、六か月を経て、清書し終わった。供養の後、漆を塗った皮の箱に入れて、外の所には置かず、居室の軒端に置いて、時々読む。

神護景雲3年の夏、五月二十三日の正午に家全体がことごとく焼亡した。ただその経を納めた箱だけが燃えさかる火の中にあってまったく焼け損じた所がない。箱を開けてみると、経の色はいかめしくて、文字は□云々」とある。
  火に焼けなかった法華経:熊野の説話

あるいはこの牟婁の沙弥というのが裸形上人であろうかと疑う(考えるに、自度僧に名はないので裸形と呼名を付けたのであろう。毎大小便利洗浴浄身というのも裸形のことに縁がある)。

新宮の社家が伝える古い系図書がある(この系図も後世の偽造と見えるが、その内に取るべきものもあるだろう。榎本氏が姓氏録に出て名草郡にその人がある。この榎本はあるいはこれと別姓か。あるいは榎本・宇井・鈴木の3氏は熊野の者であるが、榎本は宇井・鈴木とは出る所が別であるのを系図に誤って強いて1姓とするか)。

その首に千与定(あるいは千与兼、または千代包として系図を作る)を元祖として嫡子雅顕長者、二男裸形上人、三男長寛長者とある。長寛の曾孫に真俊・兼純・貞勝の3人がいて、 榎本・宇井・鈴木の3氏の祖としている。これによると、裸形はあるいは榎本氏であろうか。であれば『霊異記』の牟婁の沙弥を裸形とすることは縁があるようだ。

上の2説はそれぞれ理があっていずれをこれとも定めがたい。時代を論ずると、牟婁の沙弥は永興より40〜50年後の人である。その頃はまだ神仏習合の説は世に行われていなかったが、その業はすでにこの時代に基となって起こったのであろう。

裸形上人はこの地に住んで如意輪観音を安置し、もっぱら仏道を主張して神に奉仕し苦行を事としたことから世の人が多くこれに倣って熊野を修行の場とする。これが熊野が世に現われた始まりであろう。今に至って当山では滝修行があり、新宮で神倉修行があり、本宮では大峰金峰の修行があって、後世、修験者が金峰大峰熊野を修行するのはみなこれに起こった(修験者のことは詳らかに新宮の条下に出ている)。

熊野の地が僧徒修行の地となったことから仏意をもっぱらとして、ついに3神のことを三所権現と名づけ、3面月影の(詳らかに本宮の条下に出ている)御正体本地などのことが起こったのだ。これより朝家もまた御崇敬がいよいよ増して貞観年中になってにわかに授位があり、数年して宇多法皇の御幸があった。花山法皇の御山籠りがあった。白河法皇が途切れなく御幸なさって三山の別当職並びに検校職をお命じになり(別当並びに検校のことは新宮の条下に載せる)、天皇仙院御幸が他にその比がないほど頻繁に行われた。
  花山法皇の熊野御幸:熊野の説話
  白河上皇の熊野御幸:熊野の説話

しかしながら朝家の御崇敬の意はだいたい仏意を信仰なさることから起こるものなので、神職もみな本来の面目を改めて僧徒の説に従い、本地垂迹の説に流れてついに十二所権現の称をなした。そのことは詳らかに前にいった。

また奥熊野の地はだいたいみな三山の神領であったが、皇家が御尊崇の余り、諸国においてまた多くの神領をお寄せになり、諸家貴族がまた多くの神地を献じ、三山の神地は四方にあまねく、その隆盛は国内の神社の及ぶところではなくなる。

また世に西国三十三所観音巡礼ということが始まって、当山の如意輪観音をその第一とする。このことは花山法皇が草創しなさったことである、あるいは最明寺時頼に始まる、と言い伝える。いずれが正しいかわからない。『拾芥抄』に(この書に出ている三十三所は今いうところと異同がある)その名目を載せるがいずれのときから始まったともいわない。

後世、巡礼が盛んに行われて三山共に仏地のようになり、天下擾乱のときになって神領の多くを土豪強族に掠奪されて三山共にこれより衰える。さらに豊太閤が南征のときことごとく神領を没収し、ほとんど廃絶の姿となったのを慶長6年に浅野家が新たに300石を寄せて社領とした。元和の封初その定に襲り用いられる。これより神職社僧はようやく衰えた所を興し、廃れた所を継ぐことを謀ったが、まったく旧制を振り起こすことはできなかったところ、享保以来、官命を奉じて神殿雑舎規制を古に復することができた。これが今の宮建である。

上分に載せた神殿堂舎の他、堂が山境内にあって、別に区域をなすもの、如法道場滝本奥院のようなのはみな下に別に書いた。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

読み方:わかやまけん ひがしむろぐん なちかつうらちょう なちさん

郵便番号:〒649-5301

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牟婁郡:紀伊続風土記