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尾呂志荘:紀伊続風土記(現代語訳)


尾呂志荘 おろし 全7ヶ村

尾呂志荘全7ヶ村、東南は有馬荘に接し、西は大野荘に接し、入鹿荘西山郷の2郷に接する。その幅は東西2里半ばかり、南北2里ばかり。

荘中は山峰が四方を囲んで、上野村辺がその上流にあって土地がやや開けて東に坂本村がある。西に川瀬村栗栖村の2村がある。みな土地は最も高い。西原村下流に至って両峡の間に当たり、下は有馬荘中立村に至って谷間はますます狭い。矢野川村片川村の2村は山峰を隔てて西にあって、各小谷の間にある。上野村の辺は土地が高く北に高峰石巌があって南は地は痩せている。 陽当たりがいい地なので五穀の出来はよいという。西の方は高峰石巌が相連なって盾を並べているかのごとく、屏風を列ねているかのごとく西山郷と道路が隔絶して往来はない。

上野村の正面に当たって風伝という所がある。山峰が欠けて半円をなす。上の直径は3町余で下の円の底までは深さ3分の2になろう。これがすなわち本宮から入鹿荘を経て木本郷の木本浦に至る通路である。この辺の土地は高いので風が常に烈しくて、その欠ける所が風の衝に当たることから風の荒さは最も甚だしい。上野村の辺は風が甚だ吹き下ろすゆえに颪の名があって遠呂志と書き、ついに荘名となったのであろう。風が烈しく山気を吹き、雲霧を払うので、五穀の出来が他の山村よりよいという。

いにしえ尾呂志殿といった人が上野村にいてこの荘の地頭であったと土地の人が伝えて言う(詳しく入鹿荘論に出した)。その初めは詳らかでない。その城跡・宅趾はいま上野村にある。長亨永禄の頃になってその名称が初めて見える(長亨2年の片川村矢野川村栗栖村立合山定の文書をいま栗栖村に□する者がある。有馬荘の大馬権現の永禄の棟札に尾呂志殿の称がある)。永禄の頃に当たって尾呂志慶閑という人がある(一説に永禄の頃、孫三郎という人がいたという。孫三郎が隠居して慶閑といったのであろう)。

その子伝兵衛が堀内安房守の聟となり、堀内の族下に属す。文禄元年の朝鮮の役に安房守に従って朝鮮に渡り、軍功があり、事が終って帰る。九州の田中筑後守がこれを留め、紀州で得る知行高を与えたので留まって筑後守に10年ばかり仕え、筑後守が死んで家が断絶する。これによって伝兵衛は浪人となって紀州に帰る。元和封初の後、若山に出て仕を求む。2、3年を経て事ならず。それから勢州に至って藤堂和泉守に1000石を得て仕えたという。

尾呂志川
荘中は小谷川が最も多い。その中央の流れは上野村の北、西山郷の境の山谷から出て、西の方栗栖村片川村の谷から出る水を合わせて、南の方西原村に至り、東の方坂本村の東北、西山郷の界の峰々から出る流れと落ち合い、有馬荘中立村を経て、東に折れて阿田和村成川村の間に至って海口に達する。

尾呂志荘7ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記