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曽根荘:紀伊続風土記(現代語訳)


曽根荘 そね 全8ヶ村

曽根荘全8ヶ村、南は木本郷に接し、西は北山郷に接し、東北は三木荘・尾鷲荘の2荘に接し、東は海に面する。二木島浦・賀田浦の2湾が最も深く内に入って、諸村がこの湾に向かっていることをもって浦々の向背は各々異なっている。その幅員は長短相補い方三里余。荘中で、二木島は漁事が便利であるのと、よい澳であるのとによって村柄がよく、賀田も村居が大湊の口にあるので生産がなしやすい。その他はみな小浦で、須野浦・梶賀浦が最も窮乏の地といえる。

当荘より以東の諸荘は上世、丹敷戸畔が領した地で、いわゆる荒坂の津という。荒坂は当荘の二木島より曽根浦に越える今の曽根次郎曽根太郎という峻坂をいうのであろう(丹敷はいま長島郷に錦浦がある。丹敷はその辺りの大名で、丹敷戸畔は神武帝の御軍を防ごうとしてこの地に来て、この荒坂の辺りで帝のために誅せられたのであろう)。丹敷戸畔は誅に伏し、成務帝の御世に熊野国造をお置きになる。孝徳帝が天下の国郡郷名を定められたとき、この辺りは志摩国に属し、だいたい伊勢太神宮の神戸となる。このとき当荘及び三木荘は英虞郡余戸郷の地であっただろう。

中世以後、北畠家の領地となり、近江の佐々木の支族が来てこの地に住み、当荘7ヶ村を併せて己の領として(7ヶ村というのは古くは二木島浦・里浦を合わせて1としたためである)曽根浦にいる(佐々木氏のことは曽根浦の条に詳らかである)。後に堀内氏の旗下となり地がついに堀内氏に併せられて当郡の内となった。寛永記に「いま紀州の境である長島の荷坂峠より西南、二鬼島浦堅崎まで路程11里5町、村数40ヶ村は昔は志摩国英虞郡の地である。天正10年に新宮堀内安房守が攻め取って紀州牟婁郡の中になった」とある(伊勢記に「天正3年春正月伊勢国司賜志州長島城於加藤甚五郎志州英虞郡脇島諸島国司代々為領知限二鬼島之相川以東島々也然近年紀州熊野新宮堀内安房守氏吉逞武威欲押領脇島国司使甚五郎押新宮表」云々)。

いま考えるに志摩の地は古くはだいたい伊勢の神領で(神鳳抄及び相賀荘古本村荘司氏文書に見える。その地は伊勢神領であったことから伊勢国と書いたものがある)後世北畠家が押領したが、堀内氏が長島荷坂峠までを攻め取り紀国熊野に併せたことから北畠家押領の地は伊勢国度会郡に止まって本国と志摩とは伊勢を隔てた地となったのだ。

曽根荘8ヶ村

 


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