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太地村:紀伊続風土記(現代語訳)


太地村 たいぢ 小名 夏山(なつやま)

飛鳥神社

森浦村の東17町余りにある。この地は1つの小さな海湾の浜で、右の崎を燈明崎といい、左の崎を鷲巣という。区域は狭小だが近郷湊会の地である。太地あるいは泰地と書く。名義は詳らかでない。おそらく泰地氏がここに住してより村名が起こったのであろう。この地は古くはわずかに漁夫だけで家も少なかったが、和田氏が鯨を捕ることを始め、大いに富み、その家が数家に分かれ漁戸が年々増えて、今日の形をなし、諸方から寄り集まる湊の地となった。

小名夏山は下に別に出す。寛政の頃この浦の海中にて枝珊瑚樹を得たことがあって、君公に奉ったところ、君公はこれを将軍家にお献じになった。その後も珊瑚が綱に繋がることがあるときは懐中に珊瑚があるのに似ている。しかしながら海底が深くて探し求めることは難しいという。

飛鳥社
 本社  拝殿
 末社2社
村の中の浜辺にある。寛永元年新宮より勧請した。棟札がある。村の中の産土神である。神殿に平維盛の大刀というのを納める。刀身の長さ2尺、柄と合わせて3尺のものが2振りある。目釘の所から2つに折れている。無銘である。この刀を古くから村の中で伝えたことは『寛文雑記』にも見えている。

飛鳥神社
  熊野の観光名所:飛鳥神社
  熊野の説話:平維盛の熊野詣

東明寺  清泰山 禅宗臨済派妙心寺末、村の西の山根にある。

順心寺  清泰山 禅宗臨済派妙心寺末、村の中にある。

圓海院  天台宗那智山三十六坊の内。村の中にある。

燈明崎
村の東14町ばかり。湾曲の出崎である。この崎を室崎という。また大地崎ともいう。『続日本紀』にいわれる牟漏埼はすなわちこの地である。『続日本紀』に曰く、「孝謙天皇天平勝宝6年春正月癸丑(みずのとうし、きちゅう)、太宰府湊入唐副使従四位上吉備朝臣真備の船が去年12月7日益久ノ島に来着。これより後に益久島より進発して紀伊国の牟婁崎に漂流して着く」

この崎は巽(※東南※)の出崎なので吉備公が漂着せられたのも理由のないことではない。ある説では武漏ノ埼を潮ノ御崎に充てているが、この崎を室ノ崎と称することは今も土地の人の口碑に存するので、潮ノ御崎は熊野ノ岬で牟漏崎はすなわちこの崎であることは明らかである。寛永13年定燈明を置いて回船の標準とする。これより燈明ヵ崎の名がある。

燈明崎
  熊野の観光名所:燈明崎

梶取崎
村の巳の方15町にある。出崎である。上に遠見番所がある。

梶取崎
  熊野の観光名所:梶取崎

筆島
燈明崎より沖1町にある。周30間ばかりの小島である。ビャクシンと松とを生やす。天正頃にこの島で往来の船に帆別を取る札を書き与えたから筆島というと伝える。

鰹島
村の艮(※東北※)34町の海上にある。大石の名である。

向島
湾曲の中にある島である。周は半里ばかりある。島の中に鯨を捕る道具を入れる納屋がある。数屋並ぶので大納屋という。

身洗浦(みすすぎうら) 太刀落島
身洗浦は今は水の浦という。村の北の浜である。小松三位平維盛卿がこの浦より上陸し山水で身を濯いだことからその名が起こったと伝えいう。
太刀落島は村の子丑の方(※北微東※)の海の中にある。干潮時には少し石の頭が顕われる。維盛卿が太刀をこの辺りで落としたことからその名があると伝える。
これらのことは『寛文雑記』にも見える。

城山
村の坤(※西南※)の山上である。平地は南北2町東西21間。また屋敷跡がある。方20間余り。日高郡の湯川氏、三前郷古座浦の高川原氏が新宮を攻めるとき、和田蔵人太地隠岐守らがこの地に城を築き防戦した地という。

獺岩穴
鷲ノ巣の辺りに常渡という所がある。口の高さ6、7間ほど。幅5間、奥行20間余り。奥では横幅22間ほどある。

和田ノ岩穴
村の端の磯辺にある。山を切り抜いて門の形をなす。内に入れば村居に適している。和田氏が住居した所という。

和田の岩門
  熊野の観光名所:和田の岩門

鯨漁

旧家

夏山

和歌山県東牟婁郡太地町太地

読み方:わかやまけん ひがしむろぐん たいじちょう たいじ

郵便番号:〒649-5171/649-5371

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牟婁郡:紀伊続風土記