第21代熊野別当 湛増:熊野別当代々次第
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第21代熊野別当 湛増:紀伊続風土記(現代語訳)
第21別当 湛増
湛快の二男。法印を叙し、文治3年に補任。建久9年戊午5月8日、69歳で入滅。ただし拝堂はない。男子7人、女子5人。この他にも多いが、注記しない。治山12年。
湛増は別当の内でその名が最も高い。『尊卑分脈』でも湛快の子とする(『剣の巻』の教真の子とするのは湛快の誤りであることはすでに述べた)。同書に「実は源為義の子」と記してあるのは、母が源為義の娘とあったのを写し誤ったのであろう。
『玉海(※九条兼実の日記。『玉葉』とも※)』に「熊野別当湛快の子、法眼湛宗」とあるのは、宗が増と音が近く同人であろう。また『源平盛衰記』に頼朝には外戚の姨(※母方のおば※)の聟であるというのも誤りで、頼朝の従弟である。
『平治物語』で「六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」の条に熊野別当湛増が田辺にいるのに使いをお立てになったので兵20騎を奉った云々とある(『愚管抄』に「清盛は旅亭にあり、洛中の変を聞いた云々。熊野別当湛快は鎧7襲と弓矢を 清盛はすぐに使者を遣わして熊野に奉り、そして京に向かった」とある。これは湛増のことを誤ったのであろう。湛快はその頃死んでいたと思われる)。
この文を考えると、湛増は早くから田辺にいて、新熊野権現に奉仕していたのであろう。
『剣の巻』に「教真の子5人を5ヶ所に分け還し、この中で何も長じた者が別当を継ぐべしと遺言したが、その頃は田辺の湛増が長じていたので別当であった」とある。
『平家物語』「源氏揃」の条に「熊野にいた十郎義盛を召して蔵人になさる。行家と改名して令旨の御使に東国へ下った云々。その頃の熊野の別当湛増は平家に志が強かったが、どのようにして漏れ聞いたのであろう。新宮十郎義盛は高倉宮の令旨を賜わって美濃尾張の源氏とも触催し、すでに謀反を起こしたという。
那智新宮の者どもはきっと源氏の味方ををするだろう。湛増は平家の御恩を天のように山のように蒙っているので、どうして背き申し上げることができようか。那智新宮の者どもに矢をひとつ射かけて、平家へ子細を申し上げようとして、千人が甲冑に身を固めて、新宮の港に向かった。
新宮には鳥井の法眼(※第19代熊野別当・行範の子、行全※)、高坊の法眼(※行範の子、行快(行全の兄)のことか?※)、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(※行範の子、範誉。行快・行全の兄※)以下、その勢力都合二千余人である。ときを作り、矢合わせ(※開戦の通告のために両陣営が互いに鏑矢を射合うこと※)をして、源氏方では「あそこを射れ」、平家方では「ここを射れ」と声がかかり、矢叫びの声(※矢が命中したときに射手があげる叫び声※)は途絶えることなく、鏑矢の鳴り止む暇もなく、3日ほど戦った。
熊野別当湛増は、家の子・郎等の多くが討たれ、我が身も傷を受け、からくも命拾いをして、本宮へと逃げ上った」とある(一本には大江法眼湛増は家の子らを多く討たれ、我が身も手負って本宮へ帰り上ったと記す。『源平盛衰記』にこのことを記して「平家の祈の師に本宮の大江法眼が新宮の渚へ押し寄せる」と見えて、湛増のことはない。考えるに、大江法眼と湛増は別人で、湛増は田辺から本宮に至り、大江と力を合わせて押し寄せたのか)。
また『玉海』治承4年9月3日の条に「伝え聞いたことには、熊野権別当湛増が謀反を起こし、弟湛覚の城、及び所領の人家数千宇を焼き払い、鹿ヶ瀬以南を奪い取った。行朝の同意の上ということだ。このことは先月中旬頃のことだという話だ」とある(『百練抄』ならびに『仁和寺諸記録』にも見える。『仁和寺諸記録』の文は範智の条で引用した)。
たんぞう:『玉葉』治承4年09月03日
たんぞう:『百錬抄』治承4年10月06日
たんぞう:『仁和寺諸記抄』治承4年10月12日
同10月2日には「また伝え聞いたことには、先月の末頃、熊野の湛増の館を、その弟の湛覚が攻め戦う。相互に死者が多数出て、いまだ落ちていないという話だ」とあり、4日には「伝え聞いたことには、熊野合戦は間違った説明だということだ」とある。
11月1日に「また聞いたことには、熊野の湛増はますます勝ちに乗っているという話だ」とある。
11月17日に「また聞いたことには、熊野別当湛増は息子の僧を進上させ、そのことによって罪を許されたという話だ」とある(『平家物語』によると、湛増は初め平氏に属し、新宮十郎行家の味方である鳥居法眼らと戦い、乱を好むままに日高郡などの荘園を焼き、神地を押領したのであろう。その所行によって『玉海』に謀反と書いたのだ)。
行朝は行範の子の行忠であろう。朝と忠は音読みがやや近いので誤ったのであろう。行忠はすなわち湛増と異父兄弟で鳥居禅尼の子である。湛覚の城がどこにあったかは詳らかでない。富田荘の地であったろうか。
同書の養和元年11月6日の条に「伝え聞いたことには、熊野権別当湛増は坂東に起ったという話だ」とあり、9日の条に「熊野の湛増は使いの人を付けて院庁に書状を進上する。これは、関東に向かうが、全く謀反ではなく、公のために奉る、よこしまなことはあるはずもない、ということだ。この申し状は疑わしく思う。そう思う者が当然多いか」とある。
たんぞう:玉葉』養和元年11月06日
たんぞう:『玉葉』養和元年11月09日
また壇ノ浦合戦の条に源氏に属したことが見える(詳らかに田辺荘の新熊野の条に見える)。また丹波侍従が籠っている湯浅城を攻めたことも見える(『平家物語』一本にこの合戦を記して「湛増が頼りきっていた侍、須々木五郎左衛門允という者が人にも勝れて進み出て云々」とある)。
たんぞう:『平家物語』湛増、壇ノ浦に出陣
たんぞう:『平家物語』湯浅城の攻防
また『東鑑』治承5年3月6日壬午の条に「大中臣能親、伊勢の国より書状を中八維平のもとに通す。この書状は、去る正月19日、熊野山湛増の従類と号し、伊雑宮に濫入し、御殿を錐り破り、神宝を犯して用いたため、一の禰宜の成長神主の命令で御神体を内宮に遷し奉るところを、同26日、件の輩衆がまた山田・宇治両郷に襲来し、人屋を焼失し、資財を奪い取った。天照大神鎮坐以降千百余年、皇御孫の尊垂跡の後六百余年、未だこのような例はなかった。今は源家再興の世である。当然、謹慎の儀があるべきなのに、という内容であった。維平はこの書状を頼朝さまにお見せになった。湛増は味方であるのに、このような企てがあるとは、と頼朝さまはたいそう驚いてお聞きになった。敬神のために御立願あるべき旨を報じ仰せられた云々」とある。
高野山で蔵する湛増の書簡に五本骨の扇に松の字を白字に書いてある黒印を押してある。これが別当家の印であろう。米良氏系図に湛増が平家追討のとき河野の一族と共に先手を承る。このとき勝利で大将自らが浜辺の小松を曳き、軍扇に載せて湛増に賜わる。末広千代という。これを家の面目として五本骨日の丸に根曳の三階松を定紋所とするとある(那智尊勝院の法眼湛意の文書にもこの印を押してある。湛意も湛増の後であろう)。
『玉海』承安2年8月13日の条に「今日の夜明け方に比叡山の僧50〜60人ばかり祇陀林寺辺に行き、祇陀林寺別当の家を散々に打ち壊して帰ったという話だ。このことの根本は、熊野別当湛快の子、法眼湛宗の従者が比叡山の僧とさる7日に乱行のことがあったということだ。比叡山の僧が1人か2人殺害され、そのことにより公家より湛宗の従者らを召し、検非違使に捕えさせた。その後、比叡山の僧らはなお報復のため、急に家まで行って湛増を伐ろうとしたが、誤って他人の家を壊した。嗚呼の極みである。このことは大衆は知らない。最も身分の低い僧たちの仕業だということだ。あるいは、このことにより公家より比叡山の僧らが召されて手を下したということだ」とある。
『古事談』には「熊野別当湛増のもとにいた桂林房上座覚朝という者は武勇の器量があり、等しく人の道にも勝れていたので、湛顕快実らの時に至っても相伝え去りがたい者であった。50歳以後は深く念仏を信じ、弓矢を捨て、弥陀の名号を不断に称えた。
そして時が過ぎ、さる承元年間の頃、湛増の墓堂において勧進隣里7箇日の別時念仏を修していた間のある夜半頃に犬がしきりに吠えるので、念仏輩が不思議に思っていたところ件の覚朝が何事であろうかと出て見ると、堂門を出た間に剣を抜いた者が2人待ち構えていた。覚朝は合掌していささかも動かず、その身は声高に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えて、斬り伏せられ、気絶したが、それでも念仏の声は止まらなかったという。快実が人を遣わして殺させたのだ。熊野川の習いは指すことはないというが、人を殺すことはこのようである」とある。
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