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田辺城下:紀伊続風土記(現代語訳)


田辺城下(3)

田辺城下1
弁慶松  弁慶池
松は袋町にあり、池は片町にある。土地の人は、弁慶はここで生まれたゆえに弁慶松・弁慶池の名があると伝え言う。また闘鶏権現本願の家蔵に弁慶の産湯を沸かしたという鑵子(※かんす:湯釜※)がある。今、関東より熊野に詣でる者は弁慶の旧跡と称して必ずこれを見る。その夜に必ずこの城下に宿って餅をつくのを慣例とする。名づけて弁慶の力餅という。これらのことはその証拠は定かではないが、古くから相伝えてきていることだと言っている。

考えるに、弁慶のことは世が広く知ることであるが、その生まれた所は古書に記していない。生まれた所は異説があって一様でない。その名は『東鏡』に初めて見える(文治元年11月3日の条に弁慶法師已下彼是と二百騎歟、同6日の条に武蔵坊弁慶とある)。

『義経記』では、熊野別当弁正の嫡子、母は二位大納言(名関)の娘であるという(初め右大臣師の長公に嫁ぐことを約束する。師長が病に罹り、熊野神に祈って平癒する。その翌年、師長は大納言某とその娘とを伴って熊野に詣でる。證誠殿で通夜した夜に別当がその娘を見る。帰路、大衆などに命じて女を奪わせる。師長と大納言某は大いに怒り、兵を率いて別当を討とうとして切目に陣を構えたとき、院宣があって兵を帰す。その後、別当の妻となり、懐胎すること8月にして弁慶を生むとある。考えるに、師長は右大臣を経ずして内大臣から直に太政大臣となる。また内大臣に任ぜられたのは安元元年で師長は38歳である。その年に熊野参詣があって翌年弁慶が生まれたと見れば、源平合戦の頃はわずかに10歳である。これらのことは齟齬がはなはだしいので、『義経記』に書いてあることは信ずるに足らずということができる)。幼名は鬼若という。比叡山で出家して武蔵坊弁慶と改める。兵術を好んで悪行をなす。後に義経に従い軍忠を尽くし、奥州衣川にて入水したとある。

また文明13年の文書(『寛文記』に載せる)では、弁慶は別当弁心の子で(『謡古抄』でも弁心の子とする)、7歳の頃、本宮備ノ里(本宮の傍らの山に今、備の宿という所がある。また舟渡の場を備の渡しという)にて養育される。五条大納言国綱卿が具足して上洛の後、比叡山西塔の伯耆律者慶順の弟子となるとある。しかしながら、『別当次第記』及び『目良氏系図』などを考えると、弁心・弁正の名はない。

ある書に、弁正は一名湛曹、紀州田辺鶏合権現別当とある。湛曹は湛増であろう。しかしながら、古書で湛増のことを載せるもので、弁慶を子の数に入れるものはない。後世の書ではあるいは出雲国の生まれとし、あるいは伊勢度会氏の裔とする。いずれも証拠はない。このようにその説は様々でいずれを正説と定めることは難しいが、田辺の地は古くから土地の人の口碑に遺り、所々符合することが多いので、田辺の地に生まれて本宮にて7歳頃まで育った後、上洛して比叡山に登ったのであろう。

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牟婁郡:紀伊続風土記