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伏拝村:紀伊続風土記(現代語訳)  


伏拝村 ふしおがみ

一本松村の北9町にある。中辺路街道に散在する。南は乳古良石を限りに本宮村と堺する。文明年間の文書(村民松本源四郎蔵)伏拝坂垣内とあるのがこれである。昔、和泉式部がここで本宮を伏拝んだことからこの名が起こると言う(詳らかに下条に見える)。
  熊野の観光名所:乳古良石(ちちさま)
  熊野の観光名所:熊野本宮大社
  熊野の観光名所:熊野本宮大社旧社地「大斎原」

伏拝王子
村の中にある。碑を建てた。碑面は今は磨滅している。
  熊野の観光名所:伏拝王子
  熊野の説話:伏拝王子、和泉式部
  熊野の歌:和泉式部

小祠1社

福寿院  神向山 禅宗曹洞派新宮城下全龍寺末。村の東南にある。

和泉式部供養塔
村の中の街道の傍らにある。昔、和泉式部が熊野詣に月事の穢れをはばかって奉幣せず、ここで遥拝し、空しく帰ろうとしたが、その夜、霊夢があって参詣することができた。ゆえに後年、供養のために石塔を1基を建てたと伝え言う。碑面には文字なし。

『続千載集』に、
 もろともに塵にまじはる神なれば 月のさはりぞ何かくるしき
左註にこれは和泉式部が熊野へ詣でたが、障りで奉幣がかなわなかったときに、
 腫れやらぬ 身の浮雲の棚引きて 月のさわりとなるぞかなしき
と詠んで寝た夜の夢に熊野権現がお告げになられたとか。
  熊野の観光名所:伏拝王子
  熊野の説話:伏拝王子、和泉式部
  熊野の歌:和泉式部

鬼城古城跡
村の東北8町ばかり、熊野川に臨んでいる。山の高さ45間の岩山で他に連ならない。城跡は3段ある。1の段は長さ16間横9間、2の段は長さ10間横9間、3の段は長さ21間横12間である。

その地、北は熊野川、東南は小川、北西は田地で城の坪という。果無街道に跨がる。昔は松本源四郎という者の居城であった(松本氏のことは下条に出る)。正慶元年初めてこの地に関を置き、果無越え往来の旅人を改めて関銭というのを出させた。その制は永禄年間にもなお絶えなかったと見えて松本氏の文書に見える。

七人塚
村の北端、小名階掛という所にある。堀内左馬助が鬼ケ城を攻めたとき、37人が手負い、死んだ。その7人を葬った所と伝え言う。碑銘1基あり。

旧家     松本源四郎
鬼ケ城の南1町、城栗栖という所に代々居住する。これは古の下屋敷地であるという。その家は鎮守府将軍平維茂の子、秋田城之介繁茂7世の孫、越後国小河荘赤谷城主九郎資国の子を資茂という。

嘉永2年越後守に任じ長茂と改名し、木曾義仲追討のとき信濃国筑摩河に出陣し囚人となって鎌倉に下向し、梶原平三景時に預けられる。文治4年尊南坊都定任という者が熊野山より鎌倉に来て、城氏の師檀であることによって幕府に乞い囚われを免された。正治3年、兵を天子の前で起こし、源朝政の東の洞院の第を攻める。軍破れて熊野に奔って桐原村に隠れ、本宮の神地を支配する。

長茂5世孫範永は元徳元年鬼城を築く。正慶元年2月、八鬼尾谷・九鬼・三越峠に関を置いて熊野参詣の往来を改め、代を重ねてここにいる。今なお山中に居所の跡がある。

9代孫家永は天正13年、堀内氏と戦って大敗し、勢州に奔って御炊大夫により伝来の宝 を大夫に与え、百余日そこにおり、明くる年故郷に帰った。その子、範家は 父とともに敗れて落城し居を松本に移し、家勢は大いに衰えて代々ここに住む。

その孫資久の代に堀内氏から使いを遣わして大阪籠城を勧める。父資家は怒って使者を罵辱して従わなかった。その後、武事を捨てて農となり、数代大庄屋を勤めて分家して3軒となる。しかしながら今は大いに零落している。

所有する文書に文明年中の湯川肥前入道契約の書1通、永禄年中の高野山法燈院よりの関所証文2通がある。また弓、長刀、大刀、鎗、鉄砲、鎧、鏃などの武器を多く所有する。

和歌山県田辺市本宮町伏拝

読み方:わかやまけん たなべし ほんぐうちょう ふしおがみ

郵便番号:〒647-1743

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