那智山 飛瀧権現:現・飛瀧神社
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那智山 飛瀧権現:紀伊続風土記(現代語訳)
那智山 飛瀧権現
○瀧本飛瀧権現
拝殿(面3間半) 本地堂(本尊千手観音 面3間半)
護摩堂(面5間半) 小別墅(本尊愛染明王 方4間)
別墅橋(8間半 閼伽井
山上不動堂(面2間) 伏拝
鉄塔
本国神名帳牟婁郡従四位上飛瀧神
本社の北6町にある。滝を神霊とし飛瀧権現と称する(これを一の滝という。水源に二の滝、三の滝があり、これに対して一の滝という。詳らかに下に出した)。社は十二社権現と相並ぶ。第一殿の滝宮というのがこれである。滝宮を十二所権現と相並べて立てているが、この地がその神体のいらっしゃる地なので滝本と称し、本地堂を立て本社と同じく崇奉している。花山法皇が滝本に御参詣してその後に苦行の僧がここに勤修して、これより滝修行の称が起こった。いま社僧のうちに滝執行と称する者がある。本宮の大峰先達、新宮の神倉聖と同じく修験者を兼ねる姿となっている。
当山の旧記に、昔、醍醐寺の範俊が永保年間に□に都を出て那智山に至り、千日籠の発願で愛染の法を修したところ、壇上に如意宝珠が出現した。710日を修練の限とする。また行誉上人が千日苦行のときに夢の告があって真金を滝の上で見つけた。よって五部大乗経を書写し、岩窟に収めた。これを金経門というとか。今そこはない鉄塔の傍にあったという。鉄塔は回国の僧が1国1部の法華経を収める所である。○小別墅は慈覚大師の一夏九旬行法の庵室である。○山上不動堂は応仁年中に聖護院道興親王が3年滝籠のとき自ら不動尊を板面に彫刻して、この堂の本尊となさったという。
別墅橋擬宝珠銘
日本第一熊野那智山瀧本別墅橋 大檀那源朝臣頼宣公寛永二年乙丑十二月吉日奉行中村四郎左衛門尉一成
鉄塔銘(銘文は磨滅してはっきりしない)
鉄塔 敬白熊野那智山妙典奉納所 鉄 塔銘 鏡言
奉冶鋳一丈六尺鉄塔 壷基
紀州那智山滝前金光門 沙弥観妙禅門(※銘文以下略※)
熊野は天下に比べるものもない深山幽谷なので郡中に瀑布が多くて数え切れず、異態奇状各々その趣があって心目を悦ばせる。当山の瀑布はこれと異なって群を抜いてすぐれているといえる。高さ100余丈、横幅10有余丈、落ちかかる勢いは言語詞筆の及ぶ所でない。古人で瀑布を論ずる者は銀河が逆しまに懸かっているのに喩え、あるいは積雪が千仞(※せんじん;山などが極めて高いこと※)の峰から崩れているのに比した。だいたい想像することはできるが、未だその実態を言い尽くすには足らない。
滝壺の大きさは3町余、激しい雷鳴が淵の底で起こるかのごとくで話すこともできない。流れの沫は四方に飛散して霧のごとく雲のごとく、その側1町ほど隔ててもなお衣の袂はたちまち湿り、寒気がにわかに身を襲うのを覚える。国内の奇絶を数える者は富士と淡海(※琵琶湖※)を並べて挙げて天下の冠絶とする。それにこの瀑布を加えて皇国の三絶というべきだ。朝廷が飛瀧神と崇め、官社に列して御崇奉なさるのももっともなことであるといえよう。
伝え言うことには、花山法皇が九穴貝を滝壺にお沈めになられた。白河法皇が御幸のときに泅工に命じて淵の底を探らせになさると、九穴の貝がまだあって径3尺ばかりであったとか(詳らかに『源平盛衰記』に見える)。
九穴のアワビ:熊野の説話
今から50年前に山中で大洪水が出て側の山が壊れ崩れて滝壺を埋め、大岩大石がいやが上に落ち重なって、今は古の滝壺の所より高さ20間余、その壮観の10分の2を損なった。陵谷の変化は古人が嘆ずるところなので、千百歳の後にまた古に復することもあるだろうかと人々の欲する心がある。飛滝権現のこと及び千手観音のことで古書に出ているもの、並びに和歌等を左に載せる。
『古事談』に、晴明は俗人ながら那智千日の行人である。毎日一時滝に立ち打たれた。前世もやんごとなき大峰の行人であった云々、とある。
安倍晴明那智伝説:熊野の説話
『百練抄』に、治承4年12月16日、那智千手観音が砕き壊された。件の像は石岩をもって仏像と見立てていた。行来尚而地震のように地が動き、件の巌は砕け壊れ、腰より上部がみな滝本に落ちた云々、とある(『山槐記』に、治承4年11月26日、後で聞いたことだが、この日から3日間、熊野那智は地震で滝壺の石の不動が御目上より砕け壊れた云々。法滅の相を示すか。悲しむべきことだ云々、とある)。
『名月記』に、建暦3年12月6日、この度、(※『名月記』以下略※)
『元亨釈書』に、釈仲算が安和2年に那智山の滝の下で般若心経を講じたところ、たちまち千不千眼の像を現す云々、とある。また釈真義が適って紀州那智山に詣でて帰るとき、脚が大いに腫れて行くことができない。坊に入るとたちまち癒えて、また発つと、また腫れる。諸苦行の者がみな言うことには、おそらくは神が公が行くのを止めているだけだ。公はどうして法施を献じないのか、と。義はそこで滝の下に行き般若心経を講じ、神がもし講を受けたならば祥異を見せたまえと私念した。そのとき、滝の水が逆流した。感嘆しない者はなかった、とある。
那智の滝、逆流:熊野の説話
『元亨釈書』に、花山法皇が那智山に入って3年、その精修励苦苦行はみな法を取る。ある日神龍が降りて、如意珠1顆、水晶の念珠1串、海貝1枚を献じた。法皇は宝珠を岩屋に置き、念珠を千手院に納め、地鎮となした。苦行の上首がこれを伝え、秘かに授け、今に至る。その海貝は九穴で、滝底に沈む。俗に九穴の貝を食う者は永年に老いず。思うに、滝の水を飲む者に延齢を得させるのだ。白河院は貝のことを聞き、潮を弄ぶ者に命じて滝の下に入れ、これを捜させた。潮人が出てきて申し上げて言うには、貝は今もなおあり、径3尺ほどだと。法皇がこの地に修練してより苦行する者は60人に至り、今も絶えない、とある。また、花山法皇が那智山にあるとき、天狗が多く祟因をなし、安倍晴明にこれを祭らせ、晴明は衆魔を狩籠岩屋(かりこのいわや)に咒して収めた。那智の行者に懈怠があればたちまち天狗が出て煩わしい害をなすという。
新古今集
おもふこと身にあまるまてなる滝の しはしよとむを何うらむらん
この歌は身のしつめることを歎きてあつまのかたへまからんとおもひたちける人熊野の御前に通夜して侍ける夢に見えけるとそ(考えるに、色川村に鳴滝という滝があって名所集に載せている。しかしながらこの歌は色川の鳴滝を詠んだのではなくて那智の滝のことであろう)
人のすゝめて熊野へよみて奉ける
新古今集 式乾門院御匣
那智の山遥におつる滝つせに すゝく心の塵を残らし
新古今和歌集:熊野の歌
那智山に千日こもりて出侍る時よみ侍
新後撰集 前大僧正道瑜
三とせへし那智のお山のかひあらは 立帰りみん滝の白浪
新後撰和歌集:熊野の歌
玉葉集 法印良守
三熊野の南の山の滝つせに 三とせそぬれし苔の衣手
玉葉和歌集:熊野の歌
世をのかれて後那智にまうてゝ侍りける
そのかみ千日の山こもりし侍ける事を思
ひて滝のもとに書つけ侍ける
新千載集 法眼慶融
三とせへし滝のしら糸いかなれは おもふすちなく袖ぬらすらん
新千載和歌集:熊野の歌
夫木抄 花山院御製
石はしる滝にまかいてなち山の高根をみれば花のしら雲
花山院:熊野の歌
同 家集滝上桜 源仲正
雲のゝる那智の高根に風ふけは 花ぬきくだす滝の白糸
同 百首御歌 光明峯寺入道摂政
那智の山雲井にみえる岩根より 千ひろにかゝる滝のしら糸
同 法印良宝
おもひ出る袖さへいつもかはかぬは 那智のお山の滝つせ
同 建保二年百首 従二位家隆
雲かゝる那智の滝つ瀬風ふけは ふるき軒端に玉そくたくる
同 那智の滝を 鎌倉右大臣
三熊野の那智のお山に引しめの 打はへてのみ落る滝哉
源実朝:熊野の歌
同 七百首歌中 権僧正公朝
滝の音に松のあらしも埋もれぬ 那智のお山の秋の夕暮
拾玉集 慈鎮
かさねても流れもたえぬ三熊野の 浜ゆふ暮の那智の滝つせ
山家集 月照滝 西行法師
雲消る那智の高根に月たけて 光をぬける滝の白糸滝
三重の滝をかみけるにことにたふとく覚え
て三果のつみもすゝかるゝ心地しけれは
身につもる詞のつみあらはれて 心をみぬる三かさねの滝
西行法師:熊野の歌
家集 那智
山ふかみさそ高からし都まて 音に聞ゆるなちの滝つせ
藤原為家:熊野の歌
草庵集 熊野那智滝に 頓阿法師
山ふかみ雲よりたつる滝つせの あたりの雨は晴る日もなし
千首 熊野 権中納言藤原為尹
落たきつ岩うつ滝の那智こもり さても心は猶や澄らん
同 滝五月雨 牡丹花
さみたれの日数数へぬれは浦波も ひとつにひゝく那智の滝つせ
草根集 名所滝 正徹
いつくよりなかれ来にけん日の本の 南は那智の滝の水上
雲井より落くる滝の行へとや しほまて高きなちの浦なみ
正徹:熊野の歌
松下集 山中滝 釈正広
山姫の思ひを高く三熊野や 水の○(※火へんに雲※)に滝の岩なみ
同 滝辺時雨
雲ちらす那智のみやまの滝波を 雹になして降る時雨哉
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
読み方:わかやまけん ひがしむろぐん なちかつうらちょう なちさん
郵便番号:〒649-5301