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栗栖川荘:紀伊続風土記(現代語訳)


栗栖川荘 くるすがわ 全13ヶ村

栗栖川荘全13ヶ村、1郡の西北の隅にあって、西は三栖荘秋津荘の2荘に接し、巽(※東南※)四番荘に隣り、北は日高郡の山地荘と界し、艮(※東北※)は和州十津川と界し、乾(※北西※)の方は山地荘・南部荘と界している。その広さは東西6里半、南北3里半。栗栖川がその中間を貫いて流れる。源は乾(※北西※)に発し、末は南に向かって岩田川となっている。この荘及び四番荘市鹿野荘は東西に相並んで通じて古の栗栖郷の地で、栗栖の名は栗栖川の地形によって起こった(栗栖の名の意味は名草郡栗栖村の条に詳しい)。

熊野街道中辺路を行くもの潮見峯を越えてこの荘に入るときは深山幽谷の地で山川の形状、村落の様子、物態土風、にわかに世と異にして一乾坤の地である。栗栖川の枝谷は大きなものが3つある。東より来るのを石舟川といい、乾(※北西※)より来るのを鍛冶屋川といい、その北にあるのを中川という。その谷はみな狭く道窮まるがごとくであるが、内はやや広くて、諸村はみなその流れに沿って家居がある。深谷の中にあるが、耕すことができる田畑がある。また山の木が多くて山稼ぎもあるので山民は安じて暮らすことができ、風俗は純朴である。

槇山  潮見峠
栗栖川荘・岩田郷三栖荘秋津荘の4荘の境にあって高さ2里ばかり。廻り10里に余るという。山峰の巽の方(※東南※)に山の足を引いているのを潮見峠という。潮見より西の方18町に捻木峯がある。捻木から潮見に至るまで槇山の半腰に1線路を開いて中辺路の街道とする。

仰いでは槇山の高峰の高くそびえているのを見ることができ、俯いては万仭の渓□に臨んでいる。一夫が関に当たれば万夫が過ぎることができないというのはこのような地をいうのであろう。天正13年豊太閤南征の時、大軍がこの地に到ったが、湯川・山本の2氏がこの地に拠って敵兵を遮ったので、豊公の兵が進むことができなかったのももっともなことである。

この地を潮見峯というのは本宮の方より来る者がこの地に至って初めて蒼海を望むことから潮見峠の名があるのであろう。峠より巽の方(※東南※)、麓の芝村まで1里。

栗栖川
源は兵生村の安堵ガ峰より出て福定村・大川村を経て、高原村に至り、芝村石舟村北郡村を過ぎ、岩田郷富田荘を経て海に入る。荘中を6里余り流れる。その間を栗栖川という。石舟村まで舟が通じている。この川は兵生村より福定村に至る間、川幅が狭く両岸は□巌壁が立ち、水が巌脚に満ちて流れる。岩の上は樹木が繁茂して陰影をなしほとんど洞の中のよう。全10余町。ゆえに渓流に沿って道をなしがたい。四面山峰環合し兵生村との境はじつに一乾坤の地ということができる。

小松原村より行く道を彌街道という。山険しく石は尖ってわずかな距離を歩くのも堪え難い。福定村より行くのもまた高峰を越えて道を作る。この道もまた険悪である。みな渓流に沿って歩くことができないからである。その渓流の中に鴛鴦が多く集まり棲む。土地の人で鴛鴦を捕る者は、1網で40〜50羽捕えることがあるという。

鍛冶屋川
源は虎が峰より出て鍛冶屋川村を貫いて流れること3里余り。芝村の鍛冶屋口という所に至って栗栖川に落ち合う。この川の鮎は美味であるとして人はこれを賞す。5月から8月頃まで鵜飼または小鷹網でこれを取る。

中川
源は笠塔山より流れ出て小松原村温川村を経て高原村の内川合という所で栗栖川に落ち合う。流れる長さは3里ばかり。

石舟川
源は分領山の続きである知毛谷より出て80町ばかり流れて芝村の滝尻で栗栖川に落ち合う。

夫木抄                        忠盛朝臣
 三熊野や石ふり川のはやくより ねがひをみつの社なりけり
 

栗栖川荘13ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記