下里村:現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里
※本ページは広告による収益を得ています。
下里村:紀伊続風土記(現代語訳)
下里村 しもさと 小名 高芝 (たかしば) 天満(てんま)
粉白村の子丑の方(※北微東※)12町余りにある。北は那智荘の森浦村と山を堺にする。村名は上村(今は長井村・高遠井村・中野川村の3村に分かれる)・中里村に対して下里という。
○小祠2社
○龍蔵寺 蓬莱山 禅宗臨済派和田村大泰寺末、村の中にある。
○城跡
村より亥の方(※北北西※)5町、山の上にある。長さ22間、幅12間。山の後に堀切がある。城主は詳らかでない。
○屋敷跡
村の中にある。土地の人の伝えでは土井佐渡守の宅地という。その地に井戸があるのを土居の井戸という。古い墓がある。佐渡守がいかなる人かは詳らかでない(世間一般に貴人の住いを土居という。土居を構えて住んだためである)。
の平治という者の家に下里殿の位牌が所蔵される。牌面に前粉代歴代領主神霊前下里歴代夫人淑霊と2行に書いてある。年月を記せず。考えるに太平記大全に「小代兵庫は紀州の者である。覚を好んで武に誉れあった正行の文の師である」ということが見える。下里殿はこの小代のことでは。
[高芝]
本村の南、川を隔てて6町にある。大田川の川口に村して当荘及び色川郷諸村の材木の類をみな当所まで出し、当所より舟に積んで諸国に出す。よって村中廻船を専らとする。民家も普通よりは勝っている。慶長元年海部郡小雑賀村の者が来て新田を開墾し始めて居住した。今に至っては家数は37、8軒ばかりある。高芝の名は川辺の芝原を開墾したことから起こったのであろう。
[天満]
本村の卯辰(※だいたい東※)の方3町ばかりにある。明暦元年、新田を開墾して民家を構える。今に至っては家数は30軒余りある。村の中に天満宮があることから村名は起こった。
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里
読み方:わかやまけん ひがしむろぐん なちかつうらちょう しもさと
郵便番号:〒649-5142
amazonのおすすめ
楽天のおすすめ