那智山 妙法山阿弥陀寺
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那智山 妙法山阿弥陀寺:紀伊続風土記(現代語訳)
那智山 妙法山阿弥陀寺
妙法山阿弥陀寺 上生院 境内 東西6町余、南北7町半ばかり 禁殺生
那智山末
十方浄土堂(本尊 釈迦) 弘法大師堂 骨堂
阿弥陀堂 客殿 庫裏 長屋
勧化所 鎮守社(1丈1寸余、1丈3尺余) 鳥居
那智山本社の南の21町ばかり。山上にある。妙法山は那智山峯の第一である。寺は真言宗で、弘法大師の開基とのこと。大師堂の木像は自作であるという。阿弥陀堂四方浄土と号す。鎮守社は三宝荒神を祀るという。寛文の寺記に「当山は貴賤男女を選ばず、骸骨を我山に納め、卒塔婆を建立し、石塔を立て、念仏修善し、無上菩提を祈る。既にこれは諸仏救世の道場である。肆往昔先徳爰居住多矣諺、女人は高野と号す。ゆえに僧尼を論ぜず住持する。往古よりの例である」とある。
その文によると当山は弘法大師の開基で、骨を納めることなどは高野山に準ずる。高野は女人結界の地だが、当山は女子にも登山を許すとのことである。中世、法灯国師が再興して当山に居住したことは『元亨釈書』に見える。
世俗に亡者の熊野参りということを伝えて、人が死ぬときは幽魂が必ず当山に参詣するという。怪しいことなどを眼前に見た人もある。これはいずれの頃からいい始めたことであろうか。古いものにも見えないが、世の人は古く言い伝える。
いま考えると『霊異記』で、
「称徳天皇の御代に、紀伊国牟婁郡熊野村に永興禅師という人がいた。海辺の人を教化した。時の人はその行いを貴び、ほめて菩薩といった。天皇の都より南にあるがゆえに、名付けて南菩薩といった。
そのときに一人の僧がいて、菩薩の所に来た。持っている物は、法華経一部、白銅の水瓶一個、縄床(※縄を張った椅子※)1枚である。 僧は常に大乗の教えである法華経を説き、毎日の仕事の中心とした1一年あまりを経て、別れ去ろうと思い、禅師を敬礼し、縄床を施し奉って『間もなく、ここをおいとまして、山に籠ろう」と思う。伊勢国の方に越えていこう』と語った。
禅師はこれを聞いて、もち米の干飯を粉にしたものを2斗、僧に施し、優婆塞(※うばそく。半僧半俗の修行者※)2人を添えて、共に遣わして見送らせた。この僧は1日の道のりを送られて、法華経と鉢、干飯の粉などを優婆塞に与え、ここから帰らせ、ただ麻の縄20尋(※ひろ。一尋は約1.8m※)、水瓶1個を持って別れ去った。
2年が過ぎて、熊野村の人が熊野川の上流の山で木を伐って船を作っていたところ、よく聞くと声がして、法華経を読誦している。
日を重ね、月を経て、なおその読む声はやまない。船を作る人が経を読む声を聞いて、信仰心をおこして貴び、自分の分の食糧をささげて、声の出所さがし求めたが、見つからず、ひき返してくると、経を読む声がまだやまない。
不思議に思って禅師に申し上げると、禅師は不思議に思って行って聞くと、本当に声がする。たずね求めて見ると、1つの屍骨があって、麻の縄を2つの足につなぎ、岩にかけて身を投げて死んでいた。骨の側に水瓶があったので、別れ去った僧であることがわかった。永興は見て、悲しみ、泣いて帰った。
そうして3年が過ぎ、山人が『経を読む声はいつものようにやまない』と告げていうと永興はまた行って、その骨をとろうとして頭蓋骨を見ると、3年たってもその舌は腐っていなかった。そっくりそのまま生きている状態であった。大乗仏法の不思議な力で経を読誦し、功を積む霊験を得たことと知れた」
という髑髏が法華経を読んでいたというのはこの山のことではないだろうか。
当山に骨を納め、山を妙法山というなど、その縁ではなかろうか(熊野川上の山という文は少しこの地には当たらないようだが、当山は熊野川の枝谷の小口川郷の雲取山の続きで、熊野川と東西殊別の地ではないので、大らかには熊野川上の山ともいえて全く川上の姿はないとも言い難い)。
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
読み方:わかやまけん ひがしむろぐん なちかつうらちょう なちさん
郵便番号:〒649-5301