三輪崎村:現・和歌山県新宮市三輪崎
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三輪崎村:紀伊続風土記(現代語訳)
三輪崎村 みわさき
佐野村の寅の方(※北東微南※)11町ばかりにある。村の丑の方(※北東微北※)24町余り、新宮の広津野と鼠土峠を堺とする。村居は海上に差し出ている崎に群居して家数500軒ばかり。みな漁事を産業とし、12月から春までは鯨を捕ることを専らとする。東の方の礒岬から宇久井村まで大湾をなし、海上数町の間に久島・鈴島などがあって絶景の地である。
地形によって考えると、三輪の三は真と同じく美称の言葉、輪は湾の意味で、三輪崎は大湾の岬という意味であろう。三輪が崎の名は万葉集に初めて見えて、詠んだ歌がある。
村の12、3町ばかりにあるのを小名高森という。家数は4、5軒ある。
○上諏訪社 社地森山除地
村の亥の方(※北北西※)3町ばかりにある。荘中の産土神である。堀内安房守がこの地を押領したとき諏訪上下の社を当初及び佐野村に勧請したと伝え言う。ゆえに今も荘中の氏神とする。
○小祠2社
○龍雲寺 大興山 禅宗曹洞派伊豆国最勝院末、村中にある。
○宝蔵寺 蓬莱山 禅宗曹洞派伊豆国最勝院末、村中にある。
○三輪が崎 万葉集に見えてることについては荘論に詳らかである。
村の未の方(※南西微南※)5町ばかり、街道より上にある。土地の人は岡とだけいう。歌に詠まれることが多い。三輪が崎を詠み合わせたのはその条にある。
万葉集 長忌寸意吉麻呂歌1首
苦しくも降り来る雨か三輪が崎 狭野の渡りに家もあらなくに
羇旅作
三輪の崎荒磯も見えず波立ちぬ いづくゆ行かむ避き道はなしに
千首 恋 民部卿為家
三輪が崎荒磯も見えずかかるてふ 波よりまさる袖やうちなむ
夫木抄 海辺千鳥 権大納言実家
みわが崎夕しほさせばむら千鳥 さ野のわたりに声うつるなり
○塩屋川
源村の村の北、狼谷から流れて5町余りで海に入る。古くはこの川口の浜で塩を焼いたたためこの名があるという。
○鈴島 久島
2つの島は村の東4町ばかり海上に並んでいる。鈴島は東西50間ばかり、南北30間余り。衣比須社がある。島中で荒砥を産する。久島は村の巽の方(※東南※)海上5町ばかりにある。方1町余り。雑木が生えている。弁財天の社がある。
○高野坂
村の丑の方(※北東微北※)6町余り、新宮の往還にある。ここは西南の方より久島・鈴島などが見えて絶景である。
○古城跡
村の戌の方(※北西微南※)30町余り、丸山にある。平地9間に8間。小屋の城という。また村の亥の方(※北北西※)に要害が城という18間に11間の地がある。ともに城主は詳らかでない。
○御手洗岩
村の丑の方(※北東微北※)17町、往還の下、海辺にある。平らな岩の上に盥のように窪んでいる所が3所あるので三所洗岩という。この岩に毎月7日・18日頃、天狗が来て身を浄めると言い伝えて天狗の火が時々見えるという。
○糠塚
村の亥の方(※北北西※)6町にある。田地の中にある小山である。この塚に糠を供えて祈願すると流行病を逃れるという。
○鍛冶屋18軒
その始まりは詳らかでない。古は25軒あったが、今は18軒となった。文禄慶長の頃までは専らこの職をなし、1軒について50日ずつ職役として国主の用を勤め、また他国へ雇われて行ったこともあるという(このことは村中で所蔵する文禄3年堀内安房守の状、慶長年間の浅野氏及びその家臣等の状に詳らかである)。いつの頃からか次第にこの職を辞めて今は普通の百姓となったが、職役の代わりに米10石3斗5升ずつ18軒の内から毎年上納する。
和歌山県新宮市三輪崎
読み方:わかやまけん しんぐうし みわさき
郵便番号:〒647-0061
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