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口有馬村:紀伊続風土記(現代語訳)


口有馬村 くちありま

花の窟

下市木村の子丑の方(※北微東※)1里半、往還にある。村の坤(※西南※)久生屋村に到るのを本宮往還の伝馬道とする。村名は神代記に熊野有馬村と見えて最古の名である。有馬はこの辺の総名で、この村は慶長の頃は池辺村といった。慶安の頃、今の名となり、近世また口有馬村・奥有馬村山崎村の3ヶ村に別れた。しかしながら田地入り混じって1村のようだ。ゆえに今下に並べる寺社旧跡等はその近い所の村々の条下に載せる。当村は海浜だが、漁をなさない。3村に通じて土地は痩せ、生産乏しく、みな寒村である。村の亥の方(※北北西※)21町に小名池川というのがある。

花窟  境内 東西65間、南北110間  禁殺生
 伊弉冉尊陵  拝所  鳥居
村の北1町ばかりにある。往還の側、海辺にある。石巌が壁立し、高さ27間、南に面している。その正面に方3間ばかりの壇を作り、玉垣をめぐらし、拝所を設ける。『日本書紀』の一書に「イザナミノミコトは火の神を生むときに、火傷を負って死んでしまい、紀伊国の熊野の有馬村に葬る。土地の人は、この神の魂を祭るのに、花のときは花をもって祭り、また鼓・笛・幡旗をもって歌ったり舞ったりして祭る」とあるのがこれである(『古事記』で出雲国と伯耆国との境にある比婆山に葬るとあるのは異伝である)。花窟の名は増基法師の紀行『庵主』に初めて見える。花をもって祭ることから起こった名である。

花の窟
  花の窟神社:熊野の観光名所
  増基法師『いほぬし』より:熊野旅行記

下から10間ばかり上に方5尺ばかりの洞がある。土地の人は「御からうと」という。寛文記では三蔵法師の大般若経を籠めた所という。このことはすでに増基の『庵主』にも見えて、弥勒仏の出現の世により出す経であるとのことをいっている。これより花窟を般若の窟と称する。みな僧侶の妄説である。

祭日は年に2月2日と10月2日の2度である。寛文記に昔は祭日には紅の綱、錦の幡、金銀で花を作り散らし、火の祭といったとある。土地の人がいうことには、錦の幡は毎年、朝廷から献上されていたが、いずれの年にか熊野川が洪水でその幡を積んでいた御舟が破れたのか、祭日に至り、にわかにどうしようもなく縄で幡の形を作ったとか。その後、錦の旗のことは絶えて縄を用いる(いま花井荘の熊野川、相須村の辺に絹巻石というのがある。破船のとき、錦の幡が流れてその石にかかったゆえにその名があるとか)。

いま土地の人が用いるのは、縄を編んで幡三流の形を造り、幡の下に種々の花を括り、また扇を結いつけて、長い縄で窟の上から前にある松の木に高く掛け、三流の旗が窟前に翻る。歌舞はないけれども「花をもって祭り、また鼓・笛・幡旗をもって歌ったり舞ったりして祭る」という故実を存することは珍しい祭事といえる。

  花の窟神社春季大祭(お綱かけ神事)
  花の窟神社秋季大祭(お綱かけ神事)

『夫木抄』の光俊朝臣の花祭の詠及び久安百首の歌に錦の幡などのことは見えないが、花祭の名は古くから世に聞こえていたことがわかる。また祭日でなくても土地の人等はときどき花を奉って祈念するという(『庵主』で「卒塔婆の苔に埋もれているものなどがある」と述べているが、今はそのような穢れたものはない)。

この窟の側に7〜8間を隔てて対している岩がある。高さ4間半。これを王子窟という。『庵主』に「側に王子の岩屋がある。ただ松だけが生えている山である」というのがこれである。カグツチの神霊を祀る。この神はイザナミノミコトの御子なので王子ノ窟の名がある。一名を聖の窟ともいう。この窟にも拝所があって玉垣をめぐらす。

夫木抄  花祭りを     光俊朝臣
 神まつる花の時にや成りぬらん 有馬の村にかかるしらゆふ

     久安百首     大炊御門右大臣
 紀の国やありまの村にます神に たむくる花はちらじとぞ思ふ

     題しらず     詠み人しらず
 春風に梢さきゆく紀の国や 有馬のむらに神祭りせよ

『庵主』に、
花の岩屋の元まで着いた。見ると、やがて岩屋の山に穴を穿って、経を籠め奉っているのであった。これは世に弥勒菩薩がお現れになる世に、取り出して奉ろうとする経である。天人が常に天から降りて供養し奉っているという。なるほど、見奉ると、この世に他に似ている場所もない。卒塔婆の苔に埋もれているものなどがある。傍らに王子の岩屋というのがある。ただ松だけが生えている山である。その中にたいそう濃い紅葉などもある。本当に神の山に見える。

 法(のり)こめて立つの朝をまつ程は 秋の名ごりぞ久しかりける

    夕日で紅葉の色がよりいっそう趣深い、

 心あるありまの浦のうら風は わきて木の葉も残すありけり

    天人が降りて経供養し奉るのを思って、

 天つ人いはほを撫づる袂(たもと)にや 法(のり)の塵をば打ち払ふらん

  増基法師『いほぬし』より:熊野旅行記

4小祠社

南泉寺  禅宗曹洞派奥有馬村安楽寺末、村中にある。

海岸寺  同前、村中にある。

観音寺  同、村の亥の方(※北北西※)7〜8町、山端にある。

東安寺  同、村の亥の方(※北北西※)21町、小名池川にある。

燈籠峯
花窟より西、山続き1町上にある。大きな岩石である。寛文記に毎年元日に龍燈(※神社に奉納する灯火※)が上るとある。ゆえに燈籠の峯というのであろう。

塩棚
街道筋の村から巳の方(※南南東※)7町にある。花窟の境内の大巌の内で高さ2間、幅4間。奥行2間半ばかりの洞である。荒波のときは波が打ち入るという。

古城跡
村中にある。今は田地となった。あるいは古土居ともいう。方70間。大手巽(※東南※)に向かう。所々に高さ1間半ばかりの石垣が残り、四面に堀の跡がある。堀内安房守が築いたもので修造が完成しないうちに関ヶ原の乱があって、事は廃したという。

吽ノ石
村から丑の方(※北東微北※)井土村との堺にある。高さ10間余、周70間ばかり。梵字を彫っている。井土村に阿の岩がある。

狼煙場
燈籠峯の少し下にある。

(※以下略※)

三重県熊野市有馬町

読み方:みえけん くまのし ありまちょう

郵便番号:〒519-4325

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牟婁郡:紀伊続風土記