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浅里村:紀伊続風土記(現代語訳)


浅里村 あさり

相賀村の小名瀬原の亥の方(※北北西※)29町余りにある。乾(※北西※)三村郷田長村領と手掛石を堺とする。小名小鹿という地は村の戌の方(※北西微南※)にある。浅里の地名の意味は詳らかでない。

八幡宮  境内山周240間
村中にある。境内は飛雪滝の側なので末社に滝御前というのを祭る。当村及び相賀村の小名瀬原の産土神である。

大瀧寺  飛雪山 禅宗曹洞派新宮城下全龍寺末、村中にある。

焼倉山
村の北70町ばかり、大野荘との堺にある。山の上に高さ4町ばかりの岩倉がある。険しくて、そこに到る者はない。また山中の仏の尾という所に曹洪房という山伏の墓と言い伝える古い石塚がある。

寺尾山
村の北1里ばかり、焼倉山の続きにある。山中に寺屋敷といって6間半に3間半の屋敷跡がある。礎も残っている。昔、熊野三山全盛のとき隠遁の僧が住居したのであろう。今は樵夫の他、土地の人でも行く者はない。

飯盛山
村の亥子の方(※北微西※)三村郷田長村との境にあって高峰である。

水谷滝  下谷滝
村中の川辺にある。詳らかに熊野川の条に出ている。

大和田谷川
源は村の艮(※東北※)、大野荘の高岡村・大里村との堺の山から流れ出て村の辰の方(※南東微北※)で大川に落ち合う。

昼島  碁盤石  真魚板石  肝石  飛雪滝  七日巻淵  隠陽石
みな川の岸にある。詳らかに熊野川の条下に出ている。

比丘尼転(ころび)
村の戌の方(※北西微南※)にある。川の石に添って下は骨石から上は小名小鹿までの間、数十歩の険路をいう。この地は浅里郷から三村郷に通る往還の中で最難所なので、牛馬の通路はなく、上は絶壁で下は大川の深淵に臨むので、土地の人でも岩に手を懸けなければ越え難い。

飛鉢峯
村の戌の方(※北西微南※)、川の右、小名小鹿の上に聳え立ち、頂に寺地といって5間に6間の屋敷跡がある。岸より見通すと3町ばかりの絶壁である。保元平治の頃であろうか専念上人という高僧がこの地に道場を創建して山上から鉄鉢に綱を付けて川岸に釣り下ろし、熊野参詣の諸人に施物を乞いたことから飛鉢の名が起こる。

専念没後、その業を継ぐ者がなくて堂は破壊したが、後宇多伏見両朝のころであろうか花井荘の楊枝村に移したという。その後のことは楊枝村の薬師堂の条下に見える。

でんし帰りは川の右岸、飛鉢森の麓にある。川筋の往還である。昔、後白河上皇が のとき、勅使があって飛鉢の森の専念上人をお召しになったが、そのとき上人は楊枝村の岡という所にいたので勅使はここから帰った。ゆえに宣旨帰りと言ったのを後世訛って「でんし帰り」と言うと、伝えて言う(また天使帰りでもあろうかとも思う)。また犬戻りともいう。難所をいう名であろう(三村郷和気村の机石の条を考え合わせよ)。

白見滝  布引滝  □(虫偏に也)和田滝
大川の左右にある。詳らかに熊野川の条に出ている。

古城跡
村の戌の方(※北西微南※)にある。本丸東西16間、南北7間、四方ともに崖で1間半ばかりの堀の形がある。あるいは堀内安房守のために落城したという。城主は詳らかでない。

川端街道
相賀村の小名瀬原から村中を経て比丘尼転・でんし帰り等の難所を越え、三村郷和気村まで川伝いの道。3里4町ばかり。新宮往還とする。

旧家      尾埼氏
三里郷の鬼ガ城松本源四郎の別家という。浅野右近・水野出雲等の折紙書状4通を所蔵する。

三重県南牟婁郡紀宝町浅里

読み方:みえけん みなみむろぐん きほうちょう あさり

郵便番号:〒519-5718

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牟婁郡:紀伊続風土記