安宅村:現・和歌山県西牟婁郡白浜町安宅
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安宅村:紀伊続風土記(現代語訳)
安宅村 あたぎ
田畑高 356石8斗6升5合
家数 76軒
人数 384人
塩野村の北7町にある。塩野村・大野村と川を隔てて向かっている。
○八幡宮 境内森山周240間
末社2社 若宮・龍神社 拝殿
小名北が地にある。当村及び矢田村の産土神である。正平年中に安宅河内守が山城石清水より勧請したと伝えいう。大永4年の棟札に奉造上棟八幡宮一宇大本願安宅大炊助とある。元亀3年に大本願安宅橘光定等とある。
○小祠4社
弁財天社 社地森山周120間、村の中にある。
山王社 社地森山周180間、村の山根にある。
稲荷社 社地周12間、小名城の内にある。
鎮守社 社地森山周6町、城山にある。古、安宅氏の城の鎮守であったという。
○古城跡
村の東の城山にある。享禄年中に安宅河内守が居城した城という。東西3町、南北2町ばかり。また村の南の勝山に砦の跡がある。
○旧家 安宅新助
当家はこの地の著姓で姓は橘氏(正平文書)。居地の名をもって安宅と称す。周参見氏と並び称される(正平14年文書)。
南北朝の間に橘頼藤という人があった。備後権守に任ず。観応元年、足利尊氏が頼藤の一族に命じて淡路の海賊を防ぐために同国由良に居城させた。観応2年、周参見氏とともに阿波国竹原荘内本郷を知行した(観応2年文書)。同年同国牛牧荘の預りとなる。
また安宅王杉丸という人もある(家系に頼藤の子としている)。文和元年同国萱島の地頭となる。その後、頼藤が北朝に背く。正平14年、南朝より備後守に任ぜられる。同年8月、綸旨を賜って周参見氏とともに阿波の国を討たせる。同17年同国の内南方の地を賜る(以上文書に拠る)。その後のことは詳らかでない。
淡路由良城は永正の頃、安宅甚五郎の居城で、数世の後、三好長慶の弟、摂津守冬康がその家を続けたことから三好氏の一族となるという。また同国炬口城は大永の頃、安宅二郎三郎入道の居城という(一説に安宅監物が居城する)。また同国の洲本城は由良の安宅氏の族人が居城したという。いずれもみな頼藤の後裔であろう。
冬康の後孫を河内守猶重という。天正9年、織田氏に帰降し、所領を離れ、熊野知原に退き、安宅で死ぬ。猶重の子を玄蕃□重俊と呼ぶ。早くに死ぬ。その伯父左近丞春定が家を継ぎ、安宅川辺の40余郷を領する。天正13年豊太閤の当国征伐の時、帰降して1800石余りを領し(土地の古伝では重俊のこととする)、秀長卿に属す。その後、三成に与する。三成滅亡の後、浪人して安宅で死ぬ。
初春定がその弟信定を子とする。信定は朝鮮の役に功があった。信定は子がなくその弟重春を跡継ぎとする。重春は大坂の役で秀頼公に属し、大坂落城の後、勢州鳥羽に蟄居する。後、浅野家に捕えられ逃れて日置正光院で自殺する。その子左近介は鳥羽よりひそかに当村に帰り住し、佐左衛門と改め、代々この地に住し、地士に命ぜられる(家蔵の文書古文書部に載せる)。
和歌山県西牟婁郡白浜町安宅
読み方:わかやまけん にしむろぐん しらはまちょう あたぎ
郵便番号:〒649-2524
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