下秋津村:現・和歌山県田辺市秋津町
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下秋津村:紀伊続風土記(現代語訳)
下秋津村 しもあきづ
田畑高 1221石1斗3升3勺
家数 167軒
人数 725人
田辺荘の湊村小泉橋より北20町余りにある。村の北に小名内田川原という所がある。その地は民家が多い。若一王子及び雲森社の棟札によるとこの地は中世湯川直光また愛洲元俊、同長俊らの領地と見える。村の中の若一王子及び雲森明神、大悲権現の3社を産土神として1村の中各祭日を殊にする。
○若一王子社 境内周66間
末社 若宮 拝殿
村の巳の方(※南東微南※)、小名安井という所にある。『御幸記』に秋津王子とあるのはこれである。秋津の意味は荘論に詳らかである。当社は古くはこの地より6〜7町南の柳原という所にあった。永正7年寛文9年の棟札などに秋津荘柳原と書いてあるのはこれである。柳原は熊野往還である。後に洪水があって秋津川の流れが南に移ったので社を今の地に移したという(元禄6年の棟札に「当社はもとは柳原村にあった。3度遷り、今の安井村に勧請した」とある)。
熊野旅行記:藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3
藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』を現代語訳:1210年10月13日
○雲ノ森明神社 境内周162間
末社 八百万神遥拝所 拝殿
村の乾(※北西※)の山の上にある。祀神は詳らかでない。永正3年の棟札に「奉興立本願旦那愛洲三郎左衛門源元俊」と見え、天文10年の棟札に「愛洲三郎左衛門源長俊再興」とあって、神名を載せていない。元禄15年再興の棟札に初めて「雲の森大明神」と記してある。雲森は地名である。
夫木抄 寛治2年百首森紅葉 正三位知家
むら雨のけさもゆ□ゝの雲の森 いくたび秋の梢そむらん
○大悲権現社 境内周40間
末社 八百万神遥拝所 拝殿
村の乾(※北西※)、小名大西という所にある。祀神は詳らかでない。
○国府宮(コクブグウ)明神社 境内周2町余り
小名青木という所にある。往古尾張の国より勧請したという。祀る神は詳らかでない。拝殿あり。
○小祠3社
鳴神明神社 社地除地、小名青木という所にある
申神2社 ひとつは社地周12間、熊野という所にある。もうひとつは社地周8間、村の北の大西という所にある。
○宝満寺 岩倉山 禅宗関山派海部郡由良興国寺末
本堂 鐘楼 僧坊
村の東の山の上にある。上秋津村岡畠の城主塩ノ屋三郎行久の建立で、開山は絶照和尚という。古くは伽藍地であったが、天正年中、杉若越後守が破却する。後に今の形で再興したという。末寺3ヶ寺がが村の中にある。所蔵する古文書に当寺檀那覚一熊野方主従目良方弥次郎春湛湯川七郎右衛門殿直教龍神石見守殿右4人当寺檀那4方とある。
○光明寺 禅宗関山派村中宝満寺末、村の巽(※東南※)にある。
○普光寺 禅宗関山派村中宝満寺末、村の西にある。
○真福寺 禅宗関山派村中宝満寺末、村の坤(※西南※)にある。
○釈迦堂 村の中にある。
○秋津野
村の東南にある。8町ばかりの野であったのを今はみな田地となった。『御幸記』及び『夫木抄』に山里を詠んだのはみなこの地である。また『万葉集』にある「岩倉の小野ゆ秋津に」という歌もこの地のこととし、『八雲御抄』などに紀伊国とあるが、これは同名異所で大和国吉野郡である(これらの歌を当地とするによって上秋津の小名に一目という山があるのを人国山とし宝満寺の山号に岩倉山と号したのは好事のこじつけである)。
熊野の歌:秋津野
熊野の歌:人国山
□庵集 金蓮寺十首歌合に寒□ 頓阿法師
くちの□る枯葉も霜に埋もれて 名のみ秋津のをのゝ浅ちふ
千首 九月尽 宋雅
くれてゆく秋津の小野の浅ちふも □よひの露のおきや□かれむ
草根集 初秋 正徹
さひしさはいつも秋津のをのゝ露 此ころ草にかはる色かな
熊野の歌:正徹
これらの歌は大和であるのかこの地であるのか後世の題詠は定めがたいが熊野御幸以来はこの地を詠まないこともないのでとりあえずここに出した。この他いはくらと詠み、また雲尾花などを詠み合わせたのは『万葉集』の歌によっているので吉野にある方と見えるのですべて省いた。
○旧家 田辺領地士 目良武蔵
当家は熊野別当湛増の子孫である。芳養の目良田辺の田所と同姓で、その系が分かれる所はわからない。秋津荘の領主として秋津川にいる。永禄年中に目良淡路守というのがいた。天正年中に当荘地頭目良弥次郎春湛というのがいた(秋津川村稲荷社文書)。秋津川村の中峯の城はその居城という。天正13年一国一城の命令があって中峯の城を廃して春湛は浪人した。その子孫は下秋津村に移る。寛文2年より4代の間、秋津組大荘屋を勤め、宝暦9年より地士とする。
和歌山県田辺市秋津町
読み方:わかやまけん にしむろぐん あきづちょう
郵便番号:〒646-0005
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