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林村:紀伊続風土記(現代語訳)


林村 はやし 小名 原田(はらだ)

芳養八幡神社

 田畑高 376石5斗1升2合5勺
 家数  54軒
 人数  237人

境村の北7町にある。荘中で広 の地である。村居は散在する。当村より北の方平野に至る4村を中芳養とした。中世、中芳養をも上芳養荘といって石清水八幡宮の領地とした。林の名は八幡宮の社地が鬱蒼としていることより起こったのであろう。あるいは、古くは中芳養とのみいったのを湯川氏の被官林氏がこの地に住んだことによって林を名としたといっている。小名の原田は村の巽(※東南※)にある。

八幡宮  境内東西4町、南北3町半。禁殺生。
 摂社  弁財天社
 末社3社  八島明神社 高良若宮相殿社 太神宮春日八幡相殿社
  拝殿

芳養八幡神社
  熊野の観光名所:芳養八幡神社

村の西にある。上芳養荘8ヶ村の産土神で荘中の大社である。相伝えることには上芳養荘700貫の地は山城国石清水の社領であったのを文治の頃、鎌倉より地頭を置き領地を没収しようとしたので、石清水の領家へ訴訟する。このとき石清水より楠本荘司という者を遣わし領地を守護させはじめて勧請する。後に湯川氏が代々崇敬して社領5町3反ならびに月々の神事の料を寄付し、本社末社12社回廊鐘楼ことごとく造営したという。

昔は神主1人、社僧6人、八乙女8人、神楽男12人いたのを天正13年豊臣氏の南征のとき社殿のことごとくを焼き亡ぼされ、記録なども焼失した。その後、氏子らが仮殿を建立し、神主1人、社僧1人、神子1人を置いたという。社領4石を元和年中領主より寄付した。

末社の八島明神は古老が伝えるには、八島志奴美命を祀る。この神は上古よりの鎮座で中芳養4ヶ村の氏神であったが、八幡宮を勧請の後、末社となったという。ゆえに今でも社地を八島の壇という。

       神主 楠本氏
文治年間、楠本荘司という者が石清水より来てこの地に住み、社領を支配する。その子孫が連綿として神主を勤めるという。正応2年に楠本荘司紀国時、乾元2年嘉元2年に西願、楠本荘司守永、正平15年に楠本彦次郎兵衛尉守行等を石清水の領家より祝師職に補任する文書数通を所有する。

   別当  鷲峯寺 姑蘇我山
社地にある。真言宗古義京仁和寺末。古は別当6ヶ寺あったが、いつの頃からか当寺のみとなる。

小祠3社
 八幡宮  社地山周36間、村の坤(※西南※)にある。
 祇園社  社地周40間、村の東にある。
 宇賀神社  社地周4間、村の東にある。

泉養寺  慶谷山 浄土宗西山派名草郡梶取村総持寺末
 本堂(方6間半) 僧坊 鐘楼
村の北にある。天正年中の開基という。

内羽位(ないばい)城跡
村の北にある。東西30間ばかり、南北31間ばかり。湯川弥太郎光春が岩上峠にて山賊を退治した賞として六波羅より当郡を与える。このとき、これを築き、内梅と名付けて居住する。その後、被官林左京進という者がこれを護るという。

公文垣内
村の中の小名である。この地に脇田氏という者が住んで数代公文職を勤めたので公文垣内の名がある。公文職は今の大荘屋である。芳養川の流れをこの辺では隅田川という。脇田氏は源頼光5世多田蔵人資俊の子、俊基が和州忍海郡脇田村を領し、脇田荘司と称した。その子俊継が当郡野中村に来て子孫が湯川家に仕える。子孫がこの地に移り、浅野家のとき、当荘公文職を勤め、領主の大荘屋役を勤める。今その家は絶えた。その分家は今、田辺の家士となる。畠山氏の書状及び湯川よりの感状(かんじょう:合戦に参加のした武将の功を賞して出される文書)などを所有する。

和歌山県田辺市上芳養

読み方:わかやまけん たなべし かみはや

郵便番号:〒646-0101

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牟婁郡:紀伊続風土記