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北山郷:紀伊続風土記(現代語訳)


北山郷 きたやま 全16ヶ村

北山郷全16ヶ村、東は木本郷に接し、南は有馬荘に接し、西南は西山郷に接し、北は尾鷲荘及び和州北山荘に接する(備後川を持って界とする)。その広さは南北10里ばかり、東西4里半ばかり。郷中に北山流という溪川があって、郷の中央を曲折して流れ、下は桃崎村に至り、北山川に入る。郷中の諸村はみなこの川の左右に村居をなす。

ただ坤隅の神上村長原村柳谷村大井谷村の4ヶ村は北山流の外にあって別の谷々に分かれている。よってこの4ヶ村は古くは西山郷に属したと言い伝える。今、地形をもって考えれば、その言に理があるようだ。いずれのときに北山郷に入ったのか、今、慶長検地帳に従って北山郷に合す。

郷中の諸村は飛鳥ノ神を祭って産土神とする。かつ神上村神山村など神をもって地名とし、事跡も残っているので古くは郷中みな新宮飛鳥社の神戸の村であったのであろう。戦争の世になってそのことはみな廃したが 、代わってこの地を領する者がどのような人であったのか今は知りがたい。

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南帝が遠くさすらったとき、この地に潜幸なさったのであろうか、その跡が多く土地の人の口碑に残っている 。

この地は古くから深山窮僻であるが、谷の間は狭くはなく、地味は薄いが、田畑もまた少なくはない。四箇郷の木本浦の海辺に近いので、諸貨の交通の便もよく材木を多く出し、平日みな山稼ぎを専らとするゆえ、生産をなしやすく、家立もみなよい。土風はだいたい西山郷と等しい。

本国北山郷は北の方で和州に界し、和州にあって、北の方は祖母峯に至るまで村数全14ヶ村、これを北山荘という。北山の名が両国に通して称するときは、基本あるいは1つであるのに似ている。ゆえに土地の人は以下のように相伝えていう。いずれのときであったか、紀和両国□界を争うことがあって、ついにその地を四分六分に分かつ。紀州四分で和州六分。これが今の北山の地であると。この言は信に足らずといえども、これより以前に分争の地で□界が一定でなかったことは推して知るべし。

今、地形をもってこれを考えると、いにしえ紀州の境は北の方では祖母峯及び大峰山に至ったのであろう。だいたい証となすべきものが3つある。和州北山荘西野村宝泉寺観音大士□記に「南帝勅願寺紀州牟婁郡熊野奥北山内泉村興泉寺 永享9年丁巳2月建立開山車僧」とある。これを1の証となすことができる。

また安永年間に北山郷の村民で窮迫して家財を売った者がある。隣村の者が車長持を買った。後にその長持の底が浅いのをいぶかり、底を破って見ると、二重底でその中に古い文書を蔵していた。紀和両国□界のことを書いてあった。その文によると、古の紀州の地は今、和州に入るものが多い。よって官に訴えて古に戻すことを請いたことがある。これを2の証となすことができる。

また北山の称は紀州にあってはもとより当たっている。和州にあっては南山というべきで、北山というべきでない。これを3の証となすことができる。

これを要すると、戦争の世に互いに相力奪して一彼一此古制を失うものが多かったのであろう。慶長□□の後、諸国の□界を定めるのにことごとく古制を考える暇はない。当時私的に定めて来たので用いられるのもあったのであろう。

本国は北の方で伊勢と境を接する。これを古に考えると、曽根荘以北、尾鷲荘・相賀荘・長島荘等の荘は古はみな志摩国であったと思われる(このことは詳らかに曽根荘論に載せる)。そうであるならば、北山郷が古と異なるのも深く怪しむに足らない。しばらく書いて古を考える者の一端に備える。

北山郷16ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記