木本浦:現・三重県熊野市木本町
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木本浦:紀伊続風土記(現代語訳)
木本浦 きのもと
有馬荘の井土村の東5町ばかりにある。慶長検地帳に鬼ノ本浦と書いてある。当村はこの辺り湊会の地で商売市街をなす。南北に通ずる往還を新田町・本町・親地町とする。その西にある南北の通りを裏町・寺前町・西側町という。東北の横町が4筋ある。井筒町・笠屋町・新町・横町という。幅は東西1町半、南北7町ばかり。慶長16年の町割である。小名切立は村の乾(※北西※)7町にある。ここは古の本郷で、いまの村居は中世開発の地であろう。切立に本宮という小社がある。
村中に村開発30余人という徒があって旧家とする。村中に井戸はただ2つあるのみ。切立から堰渠を作り、その谷水を村中に引いて飲水とする。水舟が4つある。みな石を彫ってこれを作る。この辺から大和国に行く者は、西の方北山郷の桃崎村に至って和州北山荘に出る(詳らかに桃崎の条で述べた)。
○若一王子社 境内周61間
本社(5尺5寸、4尺6寸) 末社4社
拝殿 石鳥居 玉垣
浜にある。1村の産土神である。青石を神体とする。祭礼は9月9日である。浅野家が社領3石7斗余を寄附する。元和封初此による宮守を南大助という。当社は古は村の亥の方(※北北西※)15町ばかり、北山道に□木新田という所にあった。いま旧地に王子権現元宮という小社がある。
○小祠1社
○極楽寺 瑞光山 禅宗曹洞派越前福井心月寺末
本堂(7間、9間) 経蔵 僧坊 地蔵堂 鎮守社
寺前町の後の山根にある。古くは本寺はなかった。永禄年中に心月寺末となる。南龍公の御霊牌がある。熊野五箇寺のひとつである。浅野家が寺領13石5斗3升2合を寄附する。元和封初此に襲用される。いま考えるに当寺は古は若一権現の別当寺と見える。今なお権現の祭日に当寺住僧が一番に拝をなす。当寺及び大雲寺、熊福庵の3寺に弥陀薬師観音を分けて安置して1村に熊野三山を擬したと相伝えていう。
○大雲寺 円通山 禅宗曹洞派越前福井心月寺末、極楽寺の隣りにある。
○祐福寺 東光山 禅宗曹洞派村中極楽寺末、大雲寺の隣りにある。
○称名寺 法谷山 浄土宗鎮西派新宮城下瑞雲寺末、西側町の北にある。
○瑞雲寺 浄土真宗西派本願寺末、裏町にある。
○鬼岩屋
村の東5町半、出崎にある。大石岩が東に向かって海面に突き出て、その形は家屋のようで下は窟をなし、字下平という所は2段に分かれる。南の方が一段高く、奥行6間ばかり、間口10間ばかり。北の方が6尺ばかり低く、平らな所は奥行9間、間口19間ばかり。間口通して29間ばかり上に石岩が家屋のようであって、高さ10間余。岩屋に登る者は船を岩下に着けて斜に3丈余登って岩屋に登る。
岩下の海面の深さは測ることができない。波濤は常に荒く、風波が落ち着いているときでなければ船を寄せ難い。岩屋の後は村から続いた山であるが、石岩が峻絶で陸伝いでは岩屋に至り難い。じつに奇絶の境である。村の老人が伝えていうには、むかし南蛮の夷賊が熊野に来て近境を侵し掠めたため田村将軍が都から来てこれを討ち滅ぼしになった、そのときに夷賊はこの岩屋に逃げ隠れた所なので鬼岩屋という、とか。
○魔見島(まみるがしま)
鬼岩屋の正面、海上10町ばかりにある。大岩周4町余。田村将軍が夷賊征伐のときこの島に至り、夷賊の残党が鬼岩屋に隠れているのを見つけたことから魔見島の名があるという。
○本城跡
村の子丑の方(※北微東※)にある。本丸、二丸の跡、堀の跡などがある。有馬和泉守の城で、和泉守の隠居地ということは有馬荘の論に出ている。
○要害山城跡
村の西南、村の端にある。本丸、二丸、堀の跡などがある。天正の頃、堀内安房守より有馬大和守を当城の主とする。城の麓に蝙蝠ヶ岩屋というのがある。入口の幅は8間ばかり。深さはわからない。
○旧家
堀内安房守氏善の次男・有馬主膳氏時の後裔である。氏時は有馬村二ツ石の城に生まれる。正保2年筋目の家であることから南龍公が20口を賜い、屋敷地を免許し、堀内と改める。子孫代々5口白銀10枚を賜う。豊太閤朱印、堀内新治郎宛て、堀内安房守宛て文書3通、5奉行連判堀内安房守宛ての文書を伝えている(安房守氏善のことは有馬荘の論にある)。
三重県熊野市木本町
読み方:みえけん くまのし きのもとちょう
郵便番号:〒519-4323