野中村:現・和歌山県田辺市中辺路町野中
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野中村:紀伊続風土記(現代語訳)
野中村 のなか
田畑高 422石2斗2升1合
家数 107軒
人数 383人
近露村の東29町、熊野往還の駅である。当村の平瀬村の艮(※東北※)2里に半余り。野中川の上流であるが、溪が狭くて川に添って至ることができない。近露村を経るのを通路とする。この地は野中ということができる平原ではないが、深山の中で田畑などがあることから名とするのであろう。
○比曾原王子碑
相坂峠にある。往還の側の森で社はなく碑を建てて銘に大坂王子と記してある。『御幸記』には大坂本の王子とある。
熊野旅行記:藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3
○継桜王子社 境内周98間
祀神不詳(神体木像) 拝殿
末社2社
見明之明神社 金比羅・秋葉 社
村の中にある。1村の産土神である。土地の人は若一王子権現という。『御幸記』に継桜とあるのがこれである。
熊野旅行記:藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3
天正年間の記文に小広峠の王子を見明之明神の側に勧請しようと神主氏子が語らって社を建てたという。この記によれば、この王子は古は中の川王子より東、小広峠にあって、『御幸記』の次第に合わない。古はこの地にあったのを中頃小広峠に遷し、また今の地に遷したのか。
社前に桜樹がある。秀衡桜という。また接桜という。古、奥州の秀衡夫婦が熊野参詣のとき、剣山の窟にて出産し、その子をそこに置いて参籠する。ここで桜を手折って戯れに祈って「我が子がつつがなく生育すれば、この桜の色香は盛んであろう」といって、下向のときに見ると、その桜はよく成長し、幼い子もつつがなかった。そのことからその桜を接桜また秀衡桜というと言い伝えている。
○中川王子碑 境内周8間
村の東12町余りにある。『御幸記』に見えている。今は社はない。
熊野旅行記:藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3
○小広王子碑 境内周12間
村の東、道湯川村との堺、小広峠にある。
○八幡宮 境内周28間
村の中にある。神体は玉石である。
○養命寺 清水山 禅宗臨済派田辺城下法輪寺末、村の中にある。
○高尾山
村の北にある。峠まで坂道20町。
○紅葉ガ滝
往還の北の方にある。高さ7間。小名を桃原谷という。
○野中清水
継桜より少し南にある。この地を野中ということから「古の野中の清水ぬるけれどもとの心をしる人そむく」という古今集の歌を引いて名所としたのであろう。また野中の一本杉といって大樹があったという。
○地士 渡瀬安兵衛
和歌山県田辺市中辺路町野中
読み方:わかやまけん たなべし なかへちちょう のなか
郵便番号:〒646-1401
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