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大内川村:紀伊続風土記(現代語訳)


大内川村 おおちがわ 小名 十丈峠(じゅうじょうとうげ) 下野川(しものかわ)

 田畑高 20石6斗9升
 家数  77軒
 人数  248人

平瀬村の丑の方(※北東微北※)1里にある。十丈峠の山足別に1渓間に村居して西北は栗栖川荘石舟村芝村高原村の諸村と山を堺にする。十丈峠は
山の艮(※東北※)熊野街道にある。下条に載せる下野川は村の寅卯の方(※東北東※)の20町余りにある。人家は少ない。

春日明神社  境内森山周156間
 3社(左1座、中2座、右1座)  拝殿
 末社  若宮
村の東にある。神体は木像3、玉石1である。玉石は大きさ米3升ばかり入っている袋のようである。

十丈王子社  境内周30間
十丈峠にある。『御幸記』には重照王子とある。
  熊野旅行記:藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3

慈恩寺  永命山 禅宗曹洞派田辺城下法輪寺末、村の中にある。

黒滝山
峠まで坂道15町である。

旧家
愛洲氏は源姓新羅三郎義光の後裔。武田冠者政隆(号愛洲)11代愛洲三郎左衛門尉季俊と弟孫太郎忠保は共に南朝に属す。季俊は播磨国高田荘領家職、紀伊国南部荘阿波国秋月荘地頭職を賜わる。子七郎左衛門尉憲俊、弟二郎左衛門尉忠俊もまた南朝に属す。憲俊は季俊の跡を継いで地頭職に任ず(綸旨は今なおその家に所蔵する)。忠俊の子を憲信という。憲信も南朝に属して綸旨を賜わる(今なおある)。憲俊の子を三郎左衛門尉能俊という。検非違使左衛門少尉出羽守を兼任する(綸旨並びに口宣案などがある)。また兵部太輔にも任じたのだろうか。日高郡南部荘西本荘村祇園御霊宮の明徳4年の棟札に愛洲兵部太輔源能俊とある。弟下野守資俊(左衛門尉に任じたときの口宣案がある)も南朝に属す。

その後、数代を経て、武兵衛直俊という者が泉州樫井の合戦で塙団右衛門のために討死する。直俊の甥重兵衛□定という者が当村に引き蘢り農民となる。享保7年、八四郎という者が、国君熊野御帰路高瀬村にて拝し奉るそのとき、綸旨並びに由緒などの御覧に備える。同10年に命があって地士となる。その後また農民となり、代々当村に住まう。

『南朝記伝』に延元元年4月5日南方にて愛洲宗貫に伊勢国朝明郡の地頭職を賜わるとあるが、その名は系図には見えない。

また当郡秋津荘下秋津村の雲森社の永正3年の棟札にも愛津三郎左衛門尉源元俊と見える。同社の天文10年の棟札にも愛津三郎左衛門尉源長俊再興とあるのでいずれも愛洲から修繕したのであろう(愛洲は愛津とも書いたのであろう)。

豊秋津神社(雲の森さん)
  熊野の観光名所:豊秋津神社(雲の森さん)

能俊より以下は系統が完全でないので元俊・長俊の名も系図には見えない。家に元弘3年・延元3年・興国2年・正平3年・建徳2年・弘和3年の綸旨並びに系図などを持ち伝えている。

和歌山県田辺市中辺路町大内川

読み方:わかやまけん たなべし なかへちちょう おおうちがわ

郵便番号:〒646-1411

田辺市中辺路町の観光スポット宿泊施設

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牟婁郡:紀伊続風土記