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竹原村:紀伊続風土記(現代語訳)


竹原村 たけはら  小名 相須(あいす)

骨置神社

大沼村の丑の方(※北東微北※)1町半ばかりにある。村居は川の西で岸に添う。梯田が多くて土地が高い。竹は借字で高原の意味であることは地形で知ることができる。竹原村の名は『太平記』に見える。小名相須は村の申の方(※南西微北※)、川下8町ばかりにある。

村の北は深山幽谷でで、大和国北山組佐山村・浦向村に接し、大峰山が続いてわずかに樵路が通ずるのみ。土地の人といえども到る者は少ない。昔、竹原殿という者がいて、慶長の頃までこの辺を領したが、浅野氏のときに没収されたと伝えいう(竹原氏の伝は詳らかに尾呂志荘論に見える)。

古宇土宇ノ宮  境内周168間

 社(方6尺)  籠所
村の端にある。竹原村・花知村七色村の3村の産土神である。昔、大塔宮が竹原八郎入道の館に半年ばかり忍んでいらっしゃったとき、入道の娘を召されたところ、その腹に若宮1人が出生した。宮は程なく吉野にお入りになり、その後、御薄命であったので、出生の御子はそのまま当所いてお亡くなりになられたのを(あるいは朝敵のためにお討たれになったともいう)土地の人は尊んで当社を建て、神と祭ったと伝えいう。

「こうどうの宮」と称するのは、その意味は詳らかでない。和州十津川郷にも「骨置(こおつ)の宮」と称して大塔宮を祀っているというのがある。そうであれば「こうとう」「こおつ」は宮に預かった名と聞こえる。もしくは小大塔宮と称したのが転訛したのであろうか(御子がお亡くなりになった後、その骨を拾って神にした由は里人が言っている。しかしながら『寛文記』にも仮字で「こうとうの宮」と記してあるので骨置の字は好事の者が充てたのであろう)。

当社の祭礼は毎年11月朔日、神供を備えて村中当座を勤めることは他の祭礼と同じ。

骨置神社
  骨置神社:熊野の観光名所

東光寺  吉祥山 禅宗曹洞太源派新宮城下全龍寺末

村の中にある。竹原村・花知村七色村の3村の持合いである。竹原入道の建立といい伝えて、入道の位牌というのがある。銘に当寺開基東光寺殿梅翁道薫大居士と書いて年号はない。はたして竹原入道のものであるのかないのか、わからない。

大塔宮御座所

村の中、山根にある。今は畑となってその区域は詳らかでない。古い伝えで竹原入道八郎の上邸(かみやしき)で、宮がいらっしゃった所といっている。川の東、花知村にある竹原入道の屋敷跡に向かっている(今、土地の人は訛って戸野兵衛の屋敷跡といい、その下、大川の中に戸野が滝というのもあるというが、『太平記』の文によると、戸野兵衛はここではない。古い伝えの方が正しいといえる)。今、和州吉野郷の内に十二村荘に殿野村がある。これが兵衛の居住の地であったのであろう。『太平記』に「戸野兵衛がにわかに黒木の御所を作って大塔宮を守護し奉り、四方の山々に関をすえ、跡を切り塞いで用心きびしく見えた。これもなお大義の計略が叶い難いといって叔父竹原八郎入道にこの由を語ったところ、入道はすぐに戸野の語らいに従って我が舘へ宮を進らせ、無二の景色に見えたので、御心やすくお思いになってここに半年ばかりいらっしゃった」と見えているのがこれである。

竹原谷川

村の北、和州堺の高山より流れ出る。絶壁が多くて水源を極める者はない。この渓流に滝が多くある。その中に長島滝(10間ばかり)・四王滝(24、5間)・仏滝(14、5間)の3つが最も勝れているが樵父の他に見た者はない。

大塔宮が経歴しなさった道路

大塔宮が最初、竹原の所にお至りになったのは、日高郡切部荘より山路荘を経て十津川にお至りになり、それから東の方に至り、十二村荘殿野村に至り、戸野兵衛の宅にお入りになり、それから南の方に転じて西山郷の内、竹原村にお移りになったのであろう。その道路は武家方が領せられる地をお通りになったが、山伏の姿で隠れてお通りになったので、人に怪しまれなかった。後に竹原の宅を出て吉野の方に赴きになるのに、落させ給う事隠れなければ敵地の中の所々で危難にお遭いになったのだ。『太平記』はその道路のことを記し、芋瀬・小原・中津川などの名が見える。みな十津川荘の村名なので、その経歴しなさった村々は定かではないが、道を十津川荘に取って、泥川の方に至り、それから吉野にお至りになったのであろう。

和歌山県東牟婁郡北山村竹原

読み方:わかやまけん ひがしむろぐん きたやまむら たけはら

郵便番号:〒647-1602

北山村の観光スポット宿泊施設

 

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牟婁郡:紀伊続風土記