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潮埼荘:紀伊続風土記(現代語訳)


潮埼荘 しおざき 全18ヶ村

潮埼荘全18ヶ村。西は周参見荘と界し、北は佐本荘および三前郷と界し、巽(※東南※)は海に面し、串本浦以下の諸村はみな大島と海を隔てて東西相対する。その広さは東西7里半、南北1里。潮御埼は別に南に1里余り出ている。

この地は古の三前郷の内である。中世、那智山の管内となり、潮崎氏が支配したので潮埼荘の名が起った。潮と塩、訓が同じなので、塩埼とも書く。この荘はだいたい一側に海岸に並んで村をなすので、漁を専らとして農を兼ねている。漁事は時に従って色々あるが、春夏の間は鰹を取って鰹節を作り、秋冬は細魚(サヨリ)を取って諸国に売り、その一方で魚燈を製するのを専らとする。

浦々はみな同じこの地熊野にあって最南に突き出て、且つ荘中の諸村はみな山を北に負って南の方は海に面するので、最暖の地である。住民の多くが袷(※あわせ:裏地のある和服※)で冬を渉る。貧しい者は単(※ひとえ:裏地のない和服※)を着て寒さを凌ぐことができるという。

潮崎氏は平相公清盛の弟、池大納言頼盛卿の孫、河内守保業の子、保定の裔である。承久3年北条泰時が京都に乱入のとき、保業を京方であるとして罪を負わせて紀州に流した。よってこの地に住まう。その子、保定が地名の潮埼をもって氏とする。後村上帝の御時、当国の目代佐々木伊勢守貞綱が潮崎氏と婚を結んで一族となったという。潮崎氏がこの荘を全て支配するようになったのはこの時代のことであろうか。

元弘の乱のとき、北条高時が小山左衛門尉実隆、同経幸に命じて熊野の海辺を守護させた。実隆が来て潮埼荘にいる。それより代々この地に住まう。その支配する地の広さは詳らかにしがたい。小山氏また塩埼氏と隣好厚く婚を通して一族となり、共にその境界を守り、軍を出すときは互いに人衆を出して互いに助けたと見える。延元の頃、南朝より塩埼一族中小山一族中と1紙に載せられている綸旨が2通ある(三前郷西向浦の小山氏蔵)。また正平21年潮埼逸学討死のことを小山より奏する状がある(この文書は安宅荘久木村の小山氏蔵)。これらによってみると、両家が相並んでこの地を支配するので、その境界の広狭大小はいま詳らかにしがたい。

潮崎氏はいま断絶して記録、文書、家系の類は1つも伝わるところがないので、いずれのときに亡んだのか、そのことを知ることはできない。しかしながら正平以後は小山氏が日に盛んで潮崎氏は衰え、後世ついに潮埼荘は小山氏が支配する所となったのであろうか。これらのことはいま詳らかにするにも根拠となるものがない(潮崎氏の起こりと佐々木氏と一族になったことを記すのは、色川郷の田川村弥助赤木村理助の家に伝わるところの文書に寄った。この文書も本書ではない。200年ばかり以前の写しと見える)。

 

塩崎浦
山家集              西行法師
 小鯛ひくあみのうけ縄より来めり うきしわざなる塩崎の浦

  熊野の歌:西行法師

潮埼荘18ヶ村

 


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牟婁郡:紀伊続風土記