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上野浦:紀伊続風土記(現代語訳)


上野浦 うえの(※現在、うわのと呼ばれています※)

潮岬

 田畑高 182石8斗4升3合
 家数  145軒
 人数  918人

串本浦の未の方(※南西微南※)に32町にある。民家は所々に散在する。村から御崎まで8町。この地は串本浦より坂道を登り4町ばかり。それから御崎までは土地が平坦で高い所にあるので上野の名がある。

ここは本国の極南で、上野の地は別に南の方に1里余り海面に出る。和深浦江住浦の辺からこれを望むと、海中に長堤を築いたかのようである。村の東に当たって出雲浦の東に張り出てだいたい東西の広さも1里近い。串本浦より坂道の登る所の広さはわずかに3〜4町、形は瓢箪の約あるがごとし奇形といえる。

その四方の海に望む所はみな絶巌を削ったかのようである。南溟に臨んでいる地なので、風も強いが、南方陽和の方なので地勢は平温和柔で、北方の猛烈の風とは違う。

ただし土地が高く平らなので水が乏しく、村民は井戸を掘って水を得ることは難しく、小谷から注ぎ出る水を汲んで朝夕に供すという。

御埼大明神社  境内周8町
 本社  祀神 少名彦命 5尺、4尺4寸 向拝出端4尺5寸
 末社  高御産霊神社 大己貴命石宝殿 大神宮石宝殿
  拝殿  御供所
村の坤(※西南※)8町ばかり、潮岬にあって周参見荘周参見浦から三前郷津荷村まで海浜の18ヶ村の総産土神である。串本浦笠島という地に本宮と称する神社がある。これが御埼明神の旧地で、そこから今の地に遷し奉ったという。その年月は詳らかでない。社領高は2石7斗4升7合ある。

『日本書紀』に「その後、少名彦命行きて熊野の御崎に至りて遂に常世郷に適でましぬ」とある。この地が少名彦の神の周旋しなさった地なので、この地に鎮座しなさるのだ(一説に『日本書紀』の熊野御埼は出雲国であるともいう)。社殿の宝物に書写の大般若経六百巻がある。巻尾に御埼の宝経永享六三月十三日と書いてある。那智山の末社である。

      神主  塩崎氏(※現在、潮崎と書きます※)

潮御崎神社
  熊野の観光名所:潮御崎神社 

高松寺 上野山  禅宗臨済派新宮宗応寺末
村中にある。古くは長末寺という。正徳年間に今の名に改める。堂(5間、7間)、僧坊がある。

潮御埼
当浦居の西南8町ばかり、御埼明神がある所の辺りを広くいう名である。また潮埼浦ともいう。ここは本国の極南の出崎で、西の方は天気明朗の時は阿波土佐の島を雲中にかすかに見ることができる。南の方は大□に対してその際涯を見る。『万国輿地図』を閲すると我が国の南はただ大□で国があることを書いていない。そうであるならばすなわちこの地はただ皇国の極南のみならず万国の東南の極ということができる。

その西南の海岸は波濤による衝撃で石巌はことごとく破壊され、残っているもの、異態怪状磊々落々としているものはみな巌骨である。波濤が少し起こると、汹湧滂□沸騰奔激の勢いが精神をすり減らし、魂を削って長く見ることはできない。

御埼の下に一ノ島、外道島、鈴島、米粒島などいうのがある。みな大巌の海畔にあるのをいうのだ。米粒島の辺の海底の深さは測ることができない。ここを大鰐の淵藪とする。常に数十頭が群をなす。みな船を呑むものである。漁師が魚を多く得たときはこれを呑もうとして追って来ることがある。この難を免れる方法は、得た魚を2匹ずつ尾を縛り合わせ、船を矢の速さで走らせ、その得た魚を海中に投げ入れては走り、また投げ、数十匹を投げ入れる間にようやく浦辺に近くなるのでこの難を逃れるという。

潮岬
  熊野の観光名所:潮岬 

●また口和深村の三石の条に書いた海潮上り下がりのことは、この御埼がその勢いが最盛で廻船の者はこれを恐れ、常に潮間を窺って通行するという。潮の上下について1つの異事がある。下り潮のとき、御埼の辺で海中で溺れ死んだ者があれば潮が留まって往かない。このとき土地の人が御埼明神で湯立をして神に祈るとたちまち元のように下り潮になる。このことは常々あって、その霊応は著しい。上り潮のときはこのことはないという。これもまた1つの奇事である。

●また『日本書紀』に、仁徳天皇の皇后が熊野岬に至り御綱葉をお採りになったということがある。(中略)御綱葉は、古書に載っているが形状を述べていない。中古より今に至って諸説紛々として適当な説がない。

本国及び和泉伊勢志摩その他南方の海に近い地に産する1種の木がある。俗に「みつて柏」というものの属で、樹高は高くなり、葉ははなはだ厚く硬くて光沢がある。葉の表は深緑で、裏は淡い。大きさは3〜4寸ばかり。形はみつて柏のように切れ込みは深くなく円くて3尖がある。ゆえにみつて柏に対して「円みつて」という。夏月の頃、小さな白い花が集まり開き、秋になって黒い実を結ぶ。この葉は春夏秋冬凋落しない。葉心が凹みやすく物を盛るのによい。これが三角柏であることは疑いない。この木はこの地に多く生える。土地の人は「みつ木」という(いま俗に三角柏という木があるが、その木は10月頃に落葉するので『日本書紀』の文に適いがたく誤りである)。

●また『続日本紀』に「天平勝宝6年に吉備朝臣真備の船が益久ノ島より進発して、紀伊国の牟漏ノ崎に漂流して着く」とある。奥熊野太地村に牟漏崎の名があるので、すなわちその地であろう。しかしながらここは南海に突き出ているので、南海に漂流する者は多くここに着く。今もなお異国船が時々この地に漂着することがあるので吉備公が漂着したのも、あるいはこの地であるかもしれず姑疑を存すという。このことは詳らかに太地村の条下に出ている。

遠見番所
村の南5町ばかりの出崎にある。

浪ノ浦
村の巽(※東南※)で浦をなす所である。人家から8町ばかり離れているが、漁船をここに置いて漁事をなす。その地に納屋を建てるまでで人家はない。

地士          鈴木喜平次

和歌山県東牟婁郡串本町潮岬

読み方:わかやまけんにしむろぐん くしもとちょう しおのみさき

郵便番号:649-3502

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牟婁郡:紀伊続風土記